津軽街道をゆく(2013年の旅) その35  蟹田の最初は問題の碑文のある観瀾山に行く

蟹田到着は午前8時前だった。

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 今日は旅の5日目、日程はこうなっている。

津軽半島に別れを告げ、フェリーで陸奥湾を横断、脇野沢に到着、今日の旅の大半は下北半島となる。

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脇野沢行のフェリー「かもしか」は、午前920分に蟹田港を出港する。

フェリー乗り場で乗船手続きを早めに済ませたので、集合時間まで小説「津軽」で太宰治と同行したN君こと中村貞次郎の町である蟹田をぶらつくことにした。

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 まず、太宰が小説「津輕」執筆時にN君たちと登った観瀾山に行った。

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 このりっぱな鳥居をくぐり、階段を5分も歩かないで展望所に着いた。

展望所からは、蟹田の町や陸奥湾が見渡せ、もちろん対岸の下北半島も、薄ぼんやりと見ることができた。

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 観瀾山公園の中に建立されている写真右手の石は文学碑となっている。

碑文は「正義と微笑」から井伏鱒二が選び、佐藤春夫が筆を執ったもの!

井伏鱒二は太宰が師と仰ぎ、二度目の結婚の仲人にもなった人だが、太宰の遺書の中では「井伏鱒二は悪人」と酷評されていた。

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 碑文には、こう書かれている。

「彼は人を喜ばせるのが何よりも好きであった!」

実は司馬遼太郎も街道をゆく「北のまほろば」の旅で蟹田に来て観瀾山に登り、碑文を見てこう書いている。

どういうわけか、太宰とのつながりが必ずしも濃くなかった佐藤春夫の太宰への寸評が刻まれている。

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 (司馬の勘違いによるものと思われる。この碑文は太宰の作品の中から井伏鱒二が選んだもので、佐藤春夫が寸評したものではない。この碑文の犯人は、太宰の遺書の中で「悪人」と酷評された井伏鱒二であって、佐藤春夫ではない。)

「彼は人を喜ばせるのが何よりも好きであった!」

太宰における何が言いあらわされているのか、空疎というほかない。

佐藤春夫は、72年の生涯のうち、30代までは天才、晩年は創作者として平板に過ぎ、文壇の耆宿としていき、その立場を見込まれて書かされたと繋ぎ、この碑の存在が双方にとって無残と断定している。

「太宰における何が言いあらわされているのか」と、この碑文を読んで司馬が佐藤春夫の人生と人格(実際は井伏鱒二)をこうまで酷評する気持ちがわからないでもないが。

蟹田には、別の人の手になる、「太宰がここに存在した日々をここにとどめておける」、もっと大きな碑文が良かったのだ。(司馬遼太郎の思い。)

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