最上川と「おくのほそ道」の旅 その36 酒田市街の芭蕉の足跡を訪ねる

これから酒田に向かう。

芭蕉が酒田に到着したのは613(陽暦7月29)で、途中4日間象潟への旅(象潟は芭蕉のおくのほそ道の旅の北限の地であり、松島と並んで古来からの旅人の憧れの地でもあった。)をはさみ、625(陽暦810)まで9日の間酒田に滞在していた。

酒田での芭蕉の足跡は、芭蕉が来る30年前くらい前の酒田古地図を参考にする。


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本間家、近江屋、不玉、鐙屋、寺島彦助などの名が書かれているが、ほぼ隣組のような位置に住んでいる酒田を事実上支配していた廻船問屋36人衆やそれに類する方々である。

本間家(酒田本間家)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主だった。


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「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」という歌も詠まれるほどの栄華を誇った家である。

近江屋は廻船問屋36人衆の一人である。

芭蕉が酒田を去る前夜に近江屋嘉右衛門(三郎兵衛は襲名前の名)宅の納涼会に招かれた。


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ここで即興の句「初真桑 四にや断ン 輪に切ン」(初物のマクワウリは4つに切らないで輪切りにして食べようの意味)を残している。(写真は近江屋三郎兵衛邸跡)

不玉は医師の伊東玄順の俳号である。


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芭蕉が酒田で主に世話になったのが伊東玄順で、彼は当地俳壇の中心人物で俳号は不玉(ふぎょく)と名乗っていた。(写真は伊東玄順邸跡)

鐙屋は廻船問屋36人衆を代表する廻船問屋で、町政に参画し江戸時代の日本海海運にも大きな役割を担っていた。


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井原西鶴の日本永大蔵にも記されるほどの繁栄ぶりで、その家屋は国指定史跡となっている。


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家屋は1845年の大火の直後に再建されたものといわれ、当時の庄内地方で広く用いられていた「石置杉皮葺屋根」の典型的な町屋造りで、平成10年に修復作業を終えてから一般公開されている。

通りの反対側に名を連ねる寺島彦助は幕府米置場の管理にあたっていた人で、安種または詮道とも呼ばれる俳人でもあった。


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芭蕉が酒田に入った翌日に句会が開かれ、芭蕉は「涼しさや 海に入りたる 最上川」という発句を読んでいるが、奥のほそ道では「暑き日を 海に入れたり 最上川」と推敲されている。

この句会に同席していた加賀屋藤衛門、八幡源衛門、長崎一左衛門等は、三十六人衆の長人(おとな)で、酒田の豪商達は文化的素養も高く、芭蕉が酒田へ逗留している間に句会などを通じて彼をもてなしていた。

芭蕉は旅の行く先々で地元の俳人たちの歓迎を受け丁重にもてなされているが、その中でも酒田の俳人達は格段と富裕な方々で、彼には随分居心地のよいところだったようだ。

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