最上川と「おくのほそ道」の旅 その37 日和山公園を散策、芭蕉とツーショット
今回で、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅の山形県部分の2回目の旅を終わりとする。
旅の最後は日和山公園、ここには全長1.2kmの散歩道に全部で29基の文学碑が建てられていて、もちろん芭蕉の句碑や石碑もある。
酒田古地図を参考にして歩いた酒田廻船問屋36人衆など歌仙を一緒に巻いた酒田の旦那衆の住んでいた街から日和山公園に向かった。
2015年5月20日のことである。
この日は1609年から一度も休むことなく続いている酒田まつりの本祭りの日に重なっていて、日和山公園の周辺は約350店舗の出店の準備で大賑わいとなっており、ようやくのことで日和山公園の一角にある駐車場に車を停めた。
これから日和山公園文学の散歩道(園内にある案内看板)に従って公園内を散策したが、ここで僕が紹介するのは、イ;修景池に浮かぶ千石船、ロ;松尾芭蕉句碑、ハ;日和山六角灯台、ニ;松尾芭蕉像の4箇所である。
まず、イ地点の修景池に浮かぶ千石船であるが、千石船の奥には酒田祭りに使う「酒田青年会議所製作の龍の立て山鉾」が、まったく違和感無しに公園に置かれていた。
次にロ地点に建てられている松尾芭蕉句碑である。
この句碑には、象潟から帰った後で近江屋の納涼歌仙会で詠まれたあの有名な「初真桑 四つにや断ン 輪に切ン」とそれに続く一連の連句が刻まれている。
俳諧(連句)は複数のメンバーが集ってお互いの個性を発揮しながら共同で作り上げる文芸で、長句(五七五)と短句(七七)を連ねていき百句重ねたものを一巻とした。
その後芭蕉の江戸時代には発句(ほっく)から挙句(あげく)まで、和歌の三十六歌仙に因み三十六句を一巻とする形式が主流となった。
句会を催すことを「歌仙を巻く」と言い、おくのほそ道の山形路(最上川とここでは言い換えることにする。)では、尾花沢、大石田、新庄、羽黒山、鶴岡、象潟、酒田で歌仙を巻いた。
みちのく(奥羽と出羽)は古来から歌枕の聖地で、逗留した最上川の地のほぼ全域で歌仙を巻くことが出来たことは、旅するように人生を送りたいと願った永劫の旅人芭蕉にとっては願ってもないことで、想像以上の幸福感をこの旅で得ることが出来たと確信している。
おくのほそ道の旅は、彼の人生最大の旅であり、人生の集大成の旅でもあった。
次にハの日和山六角灯台を見学した。
六角灯台は、1895年に現在の酒田市宮野浦の最上川河口左岸に、酒田出身の大工棟梁・佐藤泰太郎によって建てられた。
佐藤は山王くらぶ、相馬屋などの料亭をはじめ数多くの著名な建物を手がけたことでも知られている。
1923年に大浜に移転、老朽化により高砂に2代目が建てられた折りに市民の要望で1958年に日和山公園内に移築された。
そして、ここでの最終目的地である日和山公園の芭蕉像に到着である。
日本の都市公園100選に選ばれたということで、酒田市長の名の入ったりっぱな石碑が建っていた。
この公園内で一番の高台となっていて美しく手入れされた松林を背景にこの辺り一番のいい男風にスッキリと立っている松尾芭蕉の石碑とツーショットして、最上川でのおくのほそ道の旅を終わりたい。
芭蕉とツーショットしたことで僕も永劫の旅人となり、これからも旅を続けていくことができると確信した。
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