木曽川への旅(2008年) その31 宝暦治水とヨハン・デ・レーケ

木曽川文庫では、最後に宝暦治水とヨハン・デ・レーケについて記したい。

まず宝暦治水である。

木曽三川流域の輪中地帯の歴史は水害の歴史で、水害のたびに田畑や家が流され、流域の多くの住民の犠牲が出た。

木曽三川は当時伊勢湾の上流14kmのところで合流していたが、三川それぞれの川底の高さが同じでなく、木曽川・長良川・揖斐川の順に低くなっていて、水が出るとみな揖斐川の方へ流れてしまった。

木曽三川流域の住民の悲願は、水害の原因となっていた三川合流を分流化すること。

江戸幕府は木曽三川流域の住民の工事請願を受け、1753年(宝暦3年)に強藩弱体化の目的も兼ねて、薩摩藩に治水工事を命令した。

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日本の治水事業の中で最大の難工事と言われた宝暦治水のはじまりである。

薩摩藩では幕府の命令に対し藩会議が行われたが、「命令を突き返し、一戦を交えてでも断るべき」という意見が大勢を占めた。

そうした中、薩摩藩家老平田靱負(ゆきえ)は「縁もゆかりもなく、遠い美濃の人々を水害の苦しみから救済する義務はないかもしれないが、美濃も薩摩も同じ日本の国。幕府の無理難題と思えば腹が立つが、同胞の難儀を救うのは人間の本分であり、耐え難きを耐えて、この難工事を成し遂げるなら、御家安泰の基になるばかりでなく、薩摩武士の名誉を高めて、その名を末永く後世に残すことができるのではないか」という意見。

これを薩摩藩の意見として、翌宝暦4年(西暦1754年)2月に工事は開始された。

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木曽川文庫の対岸には宝暦治水関連の様々なものがある。

治水神社は、薩摩藩家老の平田靱負を祭神に、昭和13年に建てられた神社。

千本松原は、治水工事の完成を記念して幕府の命により薩摩から取り寄せた日向松千本が育ったもので、今では樹齢200年を超える松林となっている。

また、宝暦治水の偉業を顕彰するため、千本松原の南端に宝暦治水碑が建てられている。

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次に、ヨハン・デ・レーケである。


木曽川文庫のデ・レーケ像の前で彼の話をする。

ヨハン・デ・レーケはオランダ人で、明治政府が雇った6人の土木技師の一人。

明治6年に来日し、30年間滞在して日本の砂防、河川、港湾事業について指導した。

たずさわった工事は、淀川、木曽三川、庄内川、吉野川、多摩川などの河川改修のほか、長崎港、博多港、広島港、東京港、横浜港などの港湾計画の作成も行った。

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特に木曽川の下流三川分流計画には10年にわたり心血を注ぎ、結果として大成功させた。

明治政府が雇った6人の土木技師の内訳だが、工科大学出のエリート技術者がデ・レーケを除く5人、工事現場上りのたたき上げの工事監督がデ・レーケだった。

服装も自身も飾らず、勤勉そのものの態度で誠心誠意仕事に当たったので、その結果として受勲が二度、退職金も現在の貨幣価値で四億程貰ったという。

母国オランダでは後に爵位を受け、名実ともに貴族の仲間入りを果たすことになる。

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