探険家の歴史 第3部 第7章 探検家たちによるシベリア制覇

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 ロシアがシベリアの東端に達するのは、イェルマークがイルティシュ川で水死してからわずか63年後の1648年のことである。

 ユーラシア大陸を東西にまたぐ大国家を建設するという野望を実現した民族は、モンゴル民族とロシア民族である。


 モンゴル民族は騎馬でそれを実現したが、草原の終わるところで森林に阻まれて止まった。


 ロシア民族は、シベリア平原を平行に流れる大河を利用し、船で大河や大河の支流を航海しながら実現した。


 地図を広げると、シベリア平原にはオビ川、エニセイ川、レナ川という大河が北極海に向かって平行に流れているが、それぞれの大河の支流を遡っていくと、次の大河の支流に到達するまでの距離は想像以上に近い。


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 この川と川を結ぶ道が「連水陸路」である。


 ロシア語で「ヴォロク」といい、本来は「曳く」ということばから発したもので、舟を引いて一つの河川の水域から他の河川の水域に移るための道である。


 冒険的なコサックは、競い合ってシベリア探検に旅立った。


 冬になると地面が凍るので、彼らはその上を舟を曳いて移動する。


 探検は数年にわたって続けられるので、適当な場所に食料その他を蓄積して越冬し、翌年の川の開氷をまってさらに前進していく。


 そして冬営地が安定すると砦になり、村落になることも多い。これらの砦はオストログとよばれた。


 オストログはやがて町となるが、シベリアにはこのような町が沢山できていった。


 冒険的なコサックたちのシベリア東進の速度は驚くほど早かった。


 パンテレイ・ピヤンダはレナ川の中流部にあるヤクーツクまで到達、レナ川はロシアの極東シベリア到達には特に大きな意味を持った川だった。


 ここまでくればオホーツク海は目と鼻の先である。


 彼は1620年にエニセイ川上流の町である赤十字星印のエニセイスクを出発、エニセイ河の支流をさかのぼり、レナ川の支流にはじめて出た。


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 レナ川を下り三年がかりで赤矢印のヤクーツクまで探検し、1623年に帰還した。


 パンテレイ・ピヤンダと彼の仲間は、結氷期の冬営を除いては一日に50キロメートル以上レナ河を航行した。途中のエニセイ支流からレナ河に出る時には、約十二キロメートルの「連水陸路」の雪の上を船を曳いて進んだが、あとはすべて、河上の航行であった。


 レナ川の支流アルグン川をさかのぼれば、オホーツク海のすぐ手前まで出ることができ、さらにレナ川の河口から、あるいはアルグン川に近いインヂギルカ河から北氷洋に出ることもできる。


 この地域は品質の良い毛皮獣が豊富であったから、ロシア人たちはむしろこの方向を選んで、北氷洋沿いに東へ進んだ。





 パンテレイ・ピヤンダに続いたのは、ロシアの探検家セミョーン・イワノヴィチ・デジニョフである。


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 1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア大陸の東端となる岬を回航して、アジアとアラスカが陸続きでないことを発見した。


 ロシアのシベリア(北東側)制覇は、彼によってこの時なされた。


 デジニョフは、17世紀初頭に北ロシアの河港・ヴェリキイ・ウスチュグの農家に生まれたと伝記作者らは伝えている。


 彼は富裕になることを求めてシベリアに向かい、トボリスクとエニセイスクで働き、1638年にエニセイスクからさらに東のヤクーツクへ向かった。


 ヤクーツクを拠点とした20年間はデジニョフにとって厳しい時期で、先住民から毛皮を取り立てながら北極圏の大河流域を休みなく旅する生活を送り、何度も先住民に襲われた。


 1641年に15人を率いてヤナ川流域で毛皮を集めてヤクーツクに生還し、1642年にはスタドゥヒンらとともにインディギルカ川流域で税として毛皮を取り立てる旅に出た。


 3年にわたる任務でスタドゥヒンらはヤクーツクに戻ったが、デジニョフはそのままインディギルカ川を下り北極海に出てコリマ川河口に至った。


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 1648年にヤクーツクのコサック、セミョーン・デジニョフは仲間とともに二隻の船に分乗して北氷洋からユーラシア大陸の東端となる岬を回航して、アジアとアラスカが陸続きでないことを発見、同時にシベリアの最東端に到達した。





 ロシアのシベリア(西東側)制覇はエロフェイ・パヴロヴィチ・ハバロフによってなされた。


 彼は17世紀ロシアの商人であり探検家、アムール川流域を本格的に探検し、その植民地化を図った人物として知られている。


 ロシア極東の大都市ハバロフスクやアムール州のシベリア鉄道沿いの町エロフェイ・パヴロヴィチは彼の名にちなんでいる。


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 彼は、ヨーロッパ・ロシアの北部ヴェリキイ・ウスチュグ付近で生まれた。


 ヴェリキイ・ウスチュグの付近では、セミョン・デジニョフやウラジーミル・アトラソフなど、シベリアや極東へ向かう商人や探検家を多く生んでいる。


 ハバロフは近くのソリヴィチェゴドスクの町で、後の大富豪ストロガノフ家が営む製塩所で管理人となったが、やがてシベリアでの交易に活路を見出した。


 1625年にハバロフは西シベリアのトボリスクからオビ川を下って河口にある港町マンガゼヤへと船で渡り、3年後にマンガゼヤから探検隊を率いて川船に乗って東へ向かい、丘を越えてヘタ川(タイミル半島の南東の付け根へ流れる)に到達した。


 その後東シベリアへ向かい、1632年から1641年にかけてレナ川上流に住み毛皮などを商い、赤矢印のウスチクート(バイカル湖の北)付近に農業と製塩を営む集落を築き経営した。


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 1648年、ゴロヴィンに代わり新たな総督となったドミトリー・フランツベコフに、ヤクーツク南方のダウリヤ(ザバイカルおよび沿アムール地方西部の旧称)はレナ川流域よりも農業に適した地であるとして、ダウリヤへの探検を行うことを請願し認められた。


 ハバロフは、ヴァシーリー・ポヤルコフによる1643年から1646年のロシア人最初のアムール川探検に次ぎ、2回目となるアムール川探検を率いることになった。


 1649年春に自費で隊員や武装をまかなってヤクーツクを発った。


 ハバロフは、最初はレナ川上流の支流ヴィチム川を南へ遡る経路を考えていたが、ヤクーツクの猟師のヴィチム川の東を並行するオリョークマ川を遡るとアムール川上流にたどり着くはずだという報告に基づいてオリョークマ川を遡る経路をとることにした。


 ハバロフ一行はレナ川からオリョークマ川に入り、支流のトゥングル川を遡り、その上流で船をかついで丘を越え、アムール川上流のシルカ川に達することに成功した。


 翌1650年の初めにはダウリヤに入ったが、すでに住民らは逃げ出していた。


 良い土地と良い経路を発見したという成果を得て、ハバロフは1650年5月にヤクーツクに戻り、報告の中でダウリヤを褒め称えたが、中国(清)による干渉の危険があることを警告、次の探検は職業軍人が大規模に行うべきであることを提案した。


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 しかしその後のロシアの黒竜江流域への進出は苦戦の連続で、1689年のネルチンスク条約(満洲での国境を黒竜江・外興安嶺の線に定めるというもの)により一先ず毛決着した。


 ロシアのシベリア(北東側)制覇はほとんど抵抗らしい抵抗もなく成功したが、ロシアのシベリア(西東側)制覇は、中国との国境を決めるものとなった。

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