探険家列伝第3部 第8章 間宮林蔵の時空を越える旅
蝦夷錦を運んだ道は、大陸を流れる大河アムール川(中国名・黒龍江)を経て、中国・南京から北海道に至る、全長約5千キロにおよぶ壮大な「北のシルクロード」であった。
この北のシルクロードを歩いて清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレン(現ノボリノフカ)を中心に黒龍江(アムール川)下流での調査・探検を行ったのが、間宮海峡に名を残す間宮林蔵である。
今回は間宮林蔵を中心に、北のシルクロードを旅した探検家を取り上げる。
宗谷岬先端部の2〜3km手前に「間宮林蔵渡樺出航の地」がある。
ここから間宮林蔵の旅は始まる。
間宮林蔵は江戸時代末期の19世紀初頭、日本の北辺に20年以上滞在し、蝦夷・千島列島・樺太において数々の業績を残した探険家である。
とりわけ樺太・東韃靼の探査では間宮海峡を発見し、その名を世界地図上に残した。
宗谷岬へ向かう手前に、間宮林蔵渡樺の地がある。
ここに案内板があるが、こう書かれている。
『ロシアの南下政策に驚いた幕府は文化5年4月13日(1808)間宮林蔵と松田伝十郎を北蝦夷(きたえぞ・カラフト)の調査に向かわせた。流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、風俗の異なる北蝦夷に渡り、東海岸を調べた。この年、林蔵は再び北蝦夷に渡り越冬、翌年文化6年春、西海岸を北上し北蝦夷は大陸と海峡をへだてた島であることを確認した。夏には大陸交易に赴くギリヤーク人に同行しアムール下流の満州仮府デレンを訪れ、この地方の情勢を調査し、「東韃(とうだつきこう)」として報告された。後にシーボルトは「間宮の瀬戸」と名付けて世界に紹介した。』
次回記すことになるが、既にこの頃にはロシアはカムチャッカ半島や千島列島に到達し、日本の北辺は事実上ロシアが制圧している地となっていた。
松田伝十郎と間宮林蔵の第1回の探検路は赤で示されている行程。
アイヌの人が案内する小さな舟に乗り、間宮林蔵は樺太を東海岸側から、松田伝十郎は西海岸側から調査を始めた。
アイヌの人が案内する小さな舟に乗り、間宮林蔵は樺太を東海岸側から、松田伝十郎は西海岸側から調査を始めた。
その頃、樺太が島なのかシベリアと陸つづきの半島であるかすら、現住民族以外の人々には判っていなかった。
この1回目の探検で林蔵は途中までしか進めず、内陸を横断して伝十郎が調査している西海岸へ進んだ。
伝十郎はこの時ラッカまで進み、潮の流れのようすや、海をはさんでシベリアが見えたことなどから樺太が島であることを確信したという。
しかし確信したといっても、それだけの状況証拠では樺太の島であることの実証にはならず、歴史に名を残す間宮海峡の発見は翌1809年の第2回目の間宮林蔵単独の調査結果となった。
この1回目の探検で林蔵は途中までしか進めず、内陸を横断して伝十郎が調査している西海岸へ進んだ。
伝十郎はこの時ラッカまで進み、潮の流れのようすや、海をはさんでシベリアが見えたことなどから樺太が島であることを確信したという。
しかし確信したといっても、それだけの状況証拠では樺太の島であることの実証にはならず、歴史に名を残す間宮海峡の発見は翌1809年の第2回目の間宮林蔵単独の調査結果となった。
彼の見た樺太は、村上貞助によって、「北夷分界余話」「東韃地方紀行」(3巻あり、林蔵の口述を貞助が編纂して挿図を入れたもの)としてまとめられ、1811年(文化8年)に幕府に提出された。
前者には樺太の地名や地勢、民俗が、後者には清国の仮府(一時的な役所)が置かれていたデレンを中心に、黒龍江(アムール川)下流での調査が報告されている。
【間宮林蔵が記録したデレンの写生画(左図)。柵の周囲には諸民族の仮小屋が建つ。デレンから対岸を見た写生画(右図)。】
林蔵が海峡を渡ってデレンに行けたのは、サハリンの住民ニヴフNivkh(ロシア語での複数形はニヴヒ、Nivkhi)が清への朝貢の旅に林蔵を伴ってくれたためである。
林蔵が海峡を渡ってデレンに行けたのは、サハリンの住民ニヴフNivkh(ロシア語での複数形はニヴヒ、Nivkhi)が清への朝貢の旅に林蔵を伴ってくれたためである。
この写真はノボリノフカ(旧デレン)であるが、ニヴフはサハリン北西部からアムール川下流域のこの地域にかけて居住していた。
林蔵は彼らの生活をよく観察し、『北夷分界余話』などで、絵とともにリアルに記述した。当時はアイヌがニヴフのことを「スメレンクル」とよんでいたため、林蔵も彼らを「スメレンクル」としている。
このニヴフは以前ギリヤークと呼ばれており、オホーツク文化を造ったオホーツク人の血になったと推論されているツングース系民族である。
オホーツク人は、サハリンとアムール川下流域の集団【ウリチ、ニブフ(ギリヤークともいう)など】と、カムチャッカ半島の集団(チュクチ、コリヤーク、イテリメンなど)が混血して出来た民族で、気候の寒冷化により彼らの獲物(アザラシなどの海獣たち)を追って、オホーツク海岸にまで南下した。
このオホーツク人はオホーツク文化という、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化を担った。
オホーツク人は和人とは違って、人種的にはアイヌ人の血の重要な構成要素となっ人々である。
日本人は縄文人(狩猟採取文化の人々)+弥生人(稲作文化の人々)だがアイヌ人は縄文人(狩猟採取文化の人々)が8割+オホーツク人が2割という血の混合で構成された人々である。
そのオホーツク文化を造ったであろう民族の末裔の案内で、林蔵は海峡を渡って沿海州のデレンへの探検の旅に行くのである。
間宮林蔵はアイヌ人とニヴフの案内で樺太と沿海州を旅したが、その旅は北海道に先住していた民族とその民族の子孫の助けを借りての、時空を越える旅であった。
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