津軽街道をゆく(2013年の旅) その42  斗南開発の館「徳玄寺に」て(k)

田名部の街は静かに雨が降り続いていた。

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写真撮影などもするので、傘をさして街を歩くことは旅行当初から考えていず、この旅行で最初で最後となった、オレンジ色のポンチョを頭から被っての田名部見学となった。

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さすが斗南藩庁が置かれただけのことはあって、円通寺の敷地は広大で、本堂も立派だった。

円通寺の次に、隣に位置している徳玄寺を見学した。

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門の左側に木製の柱が立てられていた。


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  斗南藩史蹟地 徳玄寺と書いてあった。

中に入ると右手に、「斗南開発の館徳玄寺」という表題で徳玄寺と斗南藩との関わりが説明された看板があった。

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徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に利用されたり、重臣の会議場や様々な施策について論議が重ねられた場所。

当時容大公は数え年3歳だったというが、移住藩士達を激励する為に各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったことなどが書かれていた。

徳玄寺は円通寺と比べると、どこにでもあるような小さな寺である。


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 上の写真はこの寺の本堂であるが、このお寺に住む人々の生活のニオイまでしてきそうだった。

ところで、「斗南」という名前の由来が気になったので、ネットで調べてみた。

有名な説を二つ紹介する。

Ⅰ 中国の詩文の中にある「北斗以南帝州」より取ったという説。

「北斗以南皆帝州」とは、北の空に輝く北斗七星より南は、等しくすべて帝の国であるという意味で、墳墓の地会津を失いはしたものの、本州最果ての国もまた同じく大君(天皇)の領土である。

われわれは朝敵でもなければ、賊軍でもない。共に北斗七星を仰ぐ帝州の民であるというもの。

Ⅱ 斗南=「図南」の意味。

 「荘子」逍遥遊より。

想像上の巨鳥、鵬(ほう)が遥か南方に向かって飛び立とうとする意から、南に発展しようとすることや大事業を計画すること。薩長藩閥政府に対する反骨精神の表れ。

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