津軽街道をゆく(2013年の旅) その44 三内丸山遺跡の南盛土まで

ボランティアガイドの案内コースである。



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【時遊トンネル → 環状配石墓 → 南盛土 → 復元住居 → 復元掘立柱建物 → 大人の墓 → 北の谷 → 北盛土 → 子どもの墓 → 大型掘立柱建物跡 → 大型掘立柱建物(復元) → 復元大型住居】のようにまわる。

案内コースに出る前に、縄文時遊館で今から約5500年前~4000年前の三内丸山の当時の集落風景を再現したジオラマ(展示などに用いる立体模型)を見た。

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遺跡の規模は、全体で約38ヘクタールあって、東京ドーム約7個分くらいの大きさ。

遺跡は八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端にあり、当時は豊かな落葉広葉樹の森が広がっていて、クリ、クルミ、山菜などが豊富だったという。

集落の北側を沖館川が流れており、海にそそぐ河口近くの小高い丘の上に縄文の人々は村を作っていた。

この場所は食料を得る上では好都合で、海と森の恵みを組み合わせることによって、縄文人たちは、一年中安定した生活を送ることができたという。

それでは、ガイドに連れられて案内コースへ出発である。


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この写真の左端の黄色の帽子のおじいさんが、僕等のガイドである。

向こうに見える建物は、どうやら復元大型住居のようである。

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カメラをズームしてみると、復元大型住居の横に、三内丸山遺跡の象徴とも言える大型掘立柱建物(復元)が見えた。

案内ガイドのおじいちゃんは南盛土の案内から始めた。

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ガイドは案内板に書かれていることとほぼ同じ内容を説明していた。

要するに、大量の土器・石器のほか、ヒスイ製の玉や土偶などが土と一緒に捨てられた結果、約1000年かかって厚さ2m~2m50センチの丘になった。

ヒスイ製の玉や土偶などは非日常的な遺物なので、南盛土は単なるゴミ捨て場というよりもお祭りを行うなど特殊な場所として利用されていた可能性も考えられているというような説明だった。

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