耽羅紀行(済州島の旅) その12 東門市場をゆく その1

 続いて、赤字3の東門市場の見学である。

 東門ロータリーの山側に広がるのが済州市民の台所を支える東門市場である。

イメージ 1

 ヤンガイドは我々を東門市場前に案内すると、あの松の木の下に午後4時半までに集合と指示した。

 見学時間は30分程、長いか短いかはこれから市場に入れば判る。

 東門市場は、済州島で最も長い歴史を持つ大規模市場で、日本の植民地支配から解放された1945年8月15日直後に形成された。

 市場には300を超えるお店が軒を並べ、販売品目も青果、水産物、衣類、土産物・雑貨など多岐に渡る。

 僕らを出迎えてくれたのは、対になったトルハルバンの像と、圧倒されるような蜜柑の山。

イメージ 2

 今の済州島は韓国本土では育たない柑橘類がありふれていて、内実共に蜜柑の島である。

 だが、古代あるいは中世社会では、柑橘類は王様や権力者だけが味わえる黄金の果実だった。

イメージ 1

 温帯に属する韓半島においては、亜熱帯風の柑橘類はその希少価値を激しく掻き立て、それは国家的統制の対象となり、やがて国家的な次元で税金として権力者に収奪されていった。(日本の米のようなもの)

 韓半島の本土と済州の間には、同じ民族とはいってもその民族内部における搾取システムが千年以上も続いていて、1894年になってようやく柑橘進上が廃止された。

 20世紀に入って、温州ミカンが登場し、それによって柑橘類の大衆的な普及が済州島で始まる。

イメージ 2

 済州島での温州ミカンの歴史は、1911年に済州島西帰浦に住んでいたフランス人神父タケ (Taquet)が、日本にいた神父から15株を受け取り、そのまま西帰浦に植えたのが始まりという。

 1913年には西帰浦市に1haの温州ミカンの果樹園が、峯という日本人によって始められた(現在の済州農園)。

 それによって従来の土着の品種が衰退した代わりに、柑橘の大衆化時代が開かれた。

 1965年から増植ブームが到来し、植裁熱が最高潮に達し、1970年代になると毎年282万株が植裁されたという。

 蜜柑を見ながら、東門市場をどんどん進んで行く。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック