探険家列伝第3部 第9章 カムチャッカ半島を制覇したウラジーミル・アトラソフ

 シベリアの制覇の次は、シベリア大陸の東端にぶら下がっている巨大半島カムチャッカ半島の制覇、この半島の面積は472,300km2もあり、日本の約1.3倍の広さである。
 カムチャツカ半島について、西洋人に詳細な情報がもたらされ始めたのは17世紀のことで、イワン・カムチャツキーやセミョン・デジニョフなどのロシアの探検家によってこの地域の情報が集められた。

 ここにはイテリメン族(カムチャダール族)が先住民族として住んでいて、河川流域沿岸部に竪穴住居や小舎を設けて漁撈生活を行いながら、冬と夏で居留地を移動する生活を送っていた。

 この巨大半島カムチャッカ半島の征服を皇帝から仰せつかったのが、ロシア人で初めてカムチャツカ半島を探検したシベリアコサックのウラジーミル・アトラソフである。

16958月、ウラジミール・アトラソフはアナディル城砦の指令として、ロシアの東シベリアの基地ヤクーツクから前進基地アナディルの砦に派遣された。

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 1696年、ルカ・モロズコはアトラソフに命ぜられカムチャツカ北部のコリヤク人討伐に派遣されたが、予定

よりずっと南のカムチャダル人の住むチギリ川上流付近にまで達した。

そこに住む住民から毛皮税を徴収して一旦帰ったが、その際江戸時代中期の漂流者で、記録に残る中では最初にロシアを訪れた日本人とされて伝兵衛の書いたものと思われる文書を持ち帰った。


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169612月、ウラジミール・アトラソフは部下の60人の兵士とユカギール人(古シベリア人の一派で、主としてトナカイでの旅のために使われた。)60人を伴って、カムチャツカ半島の征服に向かった。

カムチャッカでのアトラソフの行動は大胆で、銃と4門の大砲で石を投げて次々と抵抗するカムチャダール軍を打ち破って、村々を征服して行った。

村々を征服する度に、村々に毛皮税を納めることを約束させた。

しかし、海や河川に依存して毛皮獣を猟る技術を持たないカムチャダールにとっては死ぬより辛いことで、ある村では毛皮税を納めることを拒んだため、村人50人全員を皆殺しした。

この時期のロシアにとってシベリアやカムチャッカの原住民は毛皮獣を獲らせるためだけに存在していて、人間として彼らのことを扱っていたわけではなかった。(松前藩のアイヌ人に対する対応も似たようなものである。)

1695年にカムチャッカ半島征服事業を開始し、この事業成功の報告がモスクワに報告されたのは、わずか6年後の1701年のことだった。


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四門の大砲と60人のコサックで、ロシアはまたたくまに日本の約1.3倍の広さの土地を手に入れたのであるが、スペインのインカ帝国征服より簡単で安上がりな事業となった。



ここからは資料「カムチャツカ遠征に関する第一の報告」(伝兵衛に関する報告書1)を転載する。

169612月、ウラジミール・アトラソフ、部下の兵士と猟師60人を連れ、更に土民60人を伴って、新しい土地を発見するためにカムチャツカ半島に入る。


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一隊はオホーツク海北端のベンジナ河口を経て、カムチャツカ半島の西海岸を2週間ほど南下し、いったん東に向かいオリュトラ川流域に出、配下の部隊にはそのまま東海岸を南下させる一方、自らは再び西海岸のパラン川に出て、チギリ川河口の南に達した。


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1697年春、ウラジミール・アトラソフは半島の西海岸に向かい、その後東方に方向を転じて太平洋沿岸に出て、アリュートル川の河口のコリヤークの集落にたどり着き、ここで隊を二つに分けた。

そして一隊は東海岸をまっすぐ南下、自らの属する二隊は西海岸に出て、これまた一路南下することにした。

1697728日、ウラジミール・アトラソフはチギリ川河口から東に転じ、クレストヴカ川がカムチャツカ川に合流する地点にいたり、ここで初めてカムチャダールの集落に入る。

ここに十字架を建て「50人隊長ウラジミール・アトラソフの一行これを建てる。」と記した。

カムチャツカ川のカムチャダールの集落から引換えすと、イーチャ川を渡って更に南進し、クリル人(千島アイヌ)の集落に達した。

イーチャ河畔に駐屯中、最初にロシアを訪れた日本人とされている伝兵衛と出会う。

1698年、ウラジミール・アトラソフはカムチャツカ半島をロシア領に編入。


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カムチャツカ半島南部、北緯5210分のゴルイギナ河口に達し千島列島最北端に位置するアライド島(ロシア名はウラジミール・アトラソフに因みアトラソフ島という。)の島影を認め、これがロシア人による最初の千島望見となった。(この島の近くに、千島列島で唯一のソ連軍との激戦地となった占守島がある。)

1699722日、デンベイを連れてアナディルに帰還。

ウラジミール・アトラソフはデンベイを連れヤクーツクへ向かうが、途中でデンベイの足が腫れたのでアナディルへ送り返した。

1700年、伝兵衛、アトラソフに数ヶ月送れてヤクーツク着。ヤクーツクで取調べを受ける。

1700614日、アトラソフ、ヤクーツクの代官所へ報告を為す。

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