津軽街道をゆく(2013年の旅) その38  松前氏の先祖が住んでいた蠣崎に行く

脇野沢港に上陸するとまず、蠣崎を目指した。

司馬遼太郎の「北のまほろば」に、蠣崎のことが書いてあった。

北海道における唯一の藩である松前藩の松前氏が、もとはここ(蠣崎)に居て、蠣崎と称したり、武田と称したりしていた。

安東氏の十三湊と同じ程度に、松前氏の先祖が住んでいた蠣崎に行ってみたかった。

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 今日は下北半島のほぼ外周を廻る旅で、赤字1の蠣崎、黄矢印の道を通って赤字2の大間岬へ、それから赤字3の尻屋岬へ、最後に今日の宿となる赤字4のむつ市田名部を目指す。

最初に目指した蠣崎の集落にどうやら到着した。

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男川という川が流れていて、この川にかかる橋のタモトに車を留め、司馬遼太郎の「北のまほろば」に出ていた蠣崎八幡宮まで歩いた。

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この杉林に囲まれた一角が蠣崎八幡宮である。

建武元年(1334)、南部師行の将の武田修理信義は、この地の目代として蠣崎に城を築き拠点とした。

この八幡宮はそのときに勧請されたものと思われる。

武田氏はその後、蠣崎を名乗り、この地で勢力を増し、文安5年(1448)、当時の蠣崎城主の蠣崎五郎信純は、南部氏に反旗を翻しこの宇曽利郷一帯を支配するようになった。

信純は、享徳2年(1453)には上洛し、足利将軍に拝謁し太刀を拝領し、八幡宮に奉納したと云う。

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しかし、康生3年(1457)、八戸の南部政経は蠣崎氏討伐の兵を起こし、この地に攻め込み蠣崎城を落とし、この八幡社で勝鬨をあげたと云う。

戦いに敗れた蠣崎信純は城を捨てて海路から蝦夷地へと逃亡したという。

その蝦夷地では武田蔵人信広と名を改め、やがて松前姓を名のり、北海道における唯一の藩となるのである。

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八幡宮の鳥居の傍の掲示板には、これらのことが記されていた。

その後の武田蔵人信広がどうなったのかは、「2014年の松前街道の旅」に譲りたい。

僕の中でぼんやりとしていた物事(それは大部分が松前氏と松前藩のこと)が少しづつ解明されていく。

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