東京散歩Ⅱ その53 高橋是清翁記念公園にて
時間が昼過ぎとなったので、近くの青山Vダックで昼食とした。
食べたのは900円のこの牛肉スタミナランチで、中に入っていた「もやし」がしゃきしゃきして、とても歯触りが良かった。
まず、高橋是清翁記念公園に向かった。
ここは第20代日本国総理大臣・高橋是清の邸宅跡であり、1938年に高橋是清記念事業会が東京市に寄与し、1941年に記念公園として開園した。
高橋是清翁記念公園の沿革にまず目を通して、公園内を散策した。
今日は雨が降ったり日がさして蝉がガンガン鳴いたり、また雨が降ったりと大変忙しい一日となっている。
高橋是清翁は1936年2月26日、赤坂表町三丁目のこの場所に建っていた私邸で、陸軍皇道派の叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺された。
いわゆる二・二六事件で、高橋翁の享年は82(満81)歳であった。
高橋是清を頭に思い浮かべる時、必ずもう一人の人物が同じように浮かんでくるが、その人物が石原莞爾である。
石原莞爾は軍では帝国陸軍の異端児、軍事の偉才と呼ばれていて、組織内では変わり者だった。
石原は近い将来日米両国間で世界最終戦争が起こる主張し、満州はそのための重要な補給地であるとして、日本が満州を占領する重要性を説いた。
実際にこの主張通りに関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起して満州事変を成功させた首謀者である。
このあと、日本は勝手に満州国の建国を宣言して、その後石原が予言したとおりに、日本はアメリカとの間の世界最終戦争への道をひた走っていく。
5~6分邸内を歩いているうちに、どうやら高橋是清翁に到着した。
是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になり、その後横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(現・明治学院大学)に学び、1867年藩命により勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。
しかし留学はさんざんで、牧童をしたり葡萄園で奴隷同然の生活をしたりして、苦労の末英語の会話と読み書き能力を習得した。
帰国後は英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長をも一時務め、この時の教え子には、俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。
この明治時代が育てた日本の政財界の重鎮は、天皇親政、反財閥、農村救済を掲げ、満州国のために資金を要求する皇道派青年将校の手によって射殺された。
この時代はうかうかすれば、簡単にアヘン戦争後の中国になってしまう弱肉強食の帝国主義の世の中で、国の生死を肩に背負った方々の苦労は、僕ら凡夫の想像できる範囲のものではないと考える。
簡単に善悪正誤を言えない時代に、国民を指導していかなければならなかった立場の方々のご苦労を思って、当時の日本の政財界の重鎮の一人の像に、深く頭を垂れた。
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