東京散歩Ⅱ その54 豊川稲荷から清水谷公園へ
高橋是清翁記念公園を出て、豊川稲荷東京別院へ向かった。
豊川稲荷東京別院は港区元赤坂にある曹洞宗の寺院で、豊川稲荷妙厳寺(愛知県豊川市)の唯一の直轄別院である。
この別院は、大岡越前守忠相が三河時代より豊川稲荷を信仰していたため、豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請して屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来としている。
江戸では稲荷信仰が盛んであったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していたという。
階段を上がって稲荷社の中に入っていく。
屋敷稲荷はその後1828年、信徒の要望により一ツ木の大岡邸の敷地の内の4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所として建立され、大岡邸の一角では手狭になり堂宇の新・増築も困難であることなどから、1887年に現在地に移転した。
豊川稲荷は神社ではなく、圓福山妙嚴寺という名称の曹洞宗のお寺で、お坊さんがこの本堂近くで仕事しているところが面白かった。
本殿を守って両側から見張りについているのも、通常の狛犬ではなくておキツネさまである。
またここには、開基者となる大岡忠相の御廟も建てられていた。
今まで、高橋是清翁記念公園、豊川稲荷と歩いて来た。
橋の近くにはボート乗り場もあり、弁慶堀を涼しそうに1槽のボートが漕ぎ進んでいた。
弁慶橋を渡った先からは紀伊藩徳川屋敷の敷地があった場所となり、その跡にはそのことを示す石柱が立っていた。
すっかり都市化され高層ビルが林立する中を、昔の紀尾井町の面影を探しながら、清水谷公園まで歩いて行った。
清水谷公園には大久保公哀悼碑があり、碑を見学し、碑の前で合掌した。
大久保も、先に訪れた高橋是清とともに、暗殺による非業の死を遂げた人物である。
非業の死は紀尾井坂の変と言われ、具体的には1878年5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で、石川県の不平士族等6名によって暗殺された事件である。
詳しい説明は省略するが、この大久保公哀悼碑説明看板には、明治の元勲のひとりである大久保利通が暗殺されたことを悼んで、大久保のかつての同僚らの志により犯行現場となった現在の清水谷公園内に建てられた経緯が書かれていた。
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