「日本最長10河川の旅」で出会った「日本を代表する人物」 その12 石狩川への旅 司馬遼太郎 NO1「北海道の諸道から 厚田村へ」
石狩川への旅は、「司馬遼太郎の街道をゆく」を携えて旅した最初の旅となった。
この川では、「司馬遼太郎の街道をゆく 北海道の諸道」を旅の友とした。
「北海道の諸道」の中の、「厚田村へ」と「集治監」と「新十津川町」の3節をこの旅で参考書としたが、残りは「松前街道をゆく」の際に参考書とした。
それでは、「司馬遼太郎の街道をゆく」のプロローグの物語りを始めるが、最初は「厚田村へ」である。
河口到達の後、目標の地は厚田村(現石狩市厚田区)となる。
厚田村(現石狩市厚田区)は、大正末期の画壇で早熟の天才と言われた三岸好太郎の本籍地であり、その異父兄である子母沢寛の故郷でもある。
この川では、「司馬遼太郎の街道をゆく 北海道の諸道」を旅の友とした。
「北海道の諸道」の中の、「厚田村へ」と「集治監」と「新十津川町」の3節をこの旅で参考書としたが、残りは「松前街道をゆく」の際に参考書とした。
それでは、「司馬遼太郎の街道をゆく」のプロローグの物語りを始めるが、最初は「厚田村へ」である。
河口到達の後、目標の地は厚田村(現石狩市厚田区)となる。
厚田村(現石狩市厚田区)は、大正末期の画壇で早熟の天才と言われた三岸好太郎の本籍地であり、その異父兄である子母沢寛の故郷でもある。

この作品は、三岸が札幌第一中学校(現・札幌南高校)を卒業し、画家を志して上京する直前の1921(大正10)年、17歳の時に描かれた自画像である。
三岸好太郎は自筆の年譜に、「石狩ルーラン十六番地に生まれる」と書いているが、ルーランとはアイヌ語のルラニエ(坂の意味)が訛ってルーランとなったようだ。
「厚田村の外れに、通称ルーランと呼ばれる断崖絶壁の荒磯があり、もちろん人家などはない」、北海道蝦夷語地名解には記されていると、司馬遼太郎は街道をゆく「北海道の諸道」で書いている。
そのルーランがどんなとこか見てみたかった。
石狩川河口からはいかにも北海道らしいどこまでも真っ直ぐな道を進み、それから海に沿って車を走らせる。
道は空いているのだが、時おりバイク野郎が追い越していく。安全運転を心がけ、80キロ位で走っているので、常時追い越されている状態だが、地元の農家の車は、今度はこちらが追い越す役である。
そうこうしているうちに市街地に入った。

市街地の南側を小川のような厚田川が流れ、ここを故郷として子母沢寛(祖父はもともと御家人でその後厚田で網元となり、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営した村の顔役だった。)や戸田城聖(創価学会第2代会長、子母沢寛とは同郷で少年期よりの知己である。)や吉葉山(第43代横綱)が生まれた。
市街地を抜けてからパーキングエリアで停車し、走ってきた方向を振り返った。

半島のように突き出た部分がルーランと呼ばれる場所のようである。
この海に鰊が殺到したのは大正時代までで、鰊漁で成立した村は、今は鰊以外は何でも獲れる海と5万表も採れる米で生きている。
ここの海を敢えて三岸好太郎が本籍地とした程特に魅力的な風景ではなく、北海道のどこにでもありそうな海岸風景である。
子母沢寛は三岸好太郎のことをどの小説の中にも描かなかったが、東京へ出てきた好太郎の世話を新聞記者時代にずいぶんしている。
三岸好太郎の妻は好太郎より有名な洋画家である三岸節子だが、好太郎は節子や子母沢寛を作品の中に残している。
ここの海を敢えて三岸好太郎が本籍地とした程特に魅力的な風景ではなく、北海道のどこにでもありそうな海岸風景である。
子母沢寛は三岸好太郎のことをどの小説の中にも描かなかったが、東京へ出てきた好太郎の世話を新聞記者時代にずいぶんしている。
三岸好太郎の妻は好太郎より有名な洋画家である三岸節子だが、好太郎は節子や子母沢寛を作品の中に残している。

この絵は「赤い肩かけの婦人像」というタイトルで、モデルとなったのはこの年の秋に世帯を持つことになる吉田節子、後の三岸節子。
女子美時代、彼女はライトレットのエリマキをしていて、形は四角、長いフサを垂らしていた。

この絵は、「兄及ビ彼ノ長女」というタイトルで、十一歳年長の三岸の異父兄、梅谷松太郎とその長女てるよを描いた作品。梅谷は後に「新撰組始末記」や「勝海舟」などの時代小説で流行作家となる子母澤寛の本名である。
厚田村(あえて厚田村と呼ぶ)は、僕のような旅人さんにはタダのどこにでもある風景の漁村だが、三岸好太郎や子母沢寛には大切な故郷なのである。(現石狩市厚田区)は、大正末期の画壇で早熟の天才と言われた三岸好太郎の本籍地であり、その異父兄である子母沢寛の故郷でもある。
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