耽羅紀行(済州島の旅) その27 絶景のオルレ道で海女(ヘーニョ)に出会う
オルレ道の途中で海の見える地点があったので、ヤンガイド一行は小休止となった。
ヤンガイドは僕らに「皆さん見えますか、あのオレンジ色の浮きのある場所に海女さんがいます。仕事してます。」と指差した。その方向へ、僕もビデオカメラを向けた。
この主にオレンジ色の四角の中に、海女さんたちがオレンジ色の浮きの横で浮いたり潜ったりしているのである。
実際に海女さんを確認出来たのは、矢印の海女(ヘーニョ)だけで、他の方は海中に潜っていたようである。
ここは、保留にしていた海女に触れるのにちょうどいい場所のようである。
参考図書は、泉靖一の『済州島』(東京大学出版会1966)と司馬遼太郎の耽羅紀行である。司馬遼太郎の「耽羅紀行」の章の区切りと彼の論考で話を進めて行く。
海女(ヘーニョ)に関係する章は以下の3つである。
泉靖一(いずみせいいち)氏のこと
赤身露体(せきしんろたい)
『延喜式(えんぎしき)』のふしぎ
まず、泉靖一(いずみせいいち)氏のことから
海女は、南アジアや東南アジアの海域一般で行われていた潜水漁法民族の末裔である。
彼らは紀元前に既に、黒潮に乗って、朝鮮半島(西海岸地方や済州島や多島海など)、中国(遼東半島や山東半島)、沖縄、九州、瀬戸内海まで活動領域を広げていた。
古代日本では、潜水漁法民族は信仰などにおいての多少の違いから、安曇氏(住吉の神を奉じている)と宗像氏(宗像の神を奉じている)に大別される。
安曇氏は潜水だけでなく航海にも長じ、中国や朝鮮半島のグループと一つのグループだったと思われる。
これに対して宗像氏は潜水漁法をもっぱらにしていた。
最後に泉靖一の『済州島』を引用して、日本の海女と済州島の海女の比較をしており、日本の海女と済州島の海女は非常に似ているが、練度と気力に差があるため、結果として済州島の海女が能力において圧倒するということになると記述している。
次に赤身露体(せきしんろたい)から
日本人は海藻を食べるが、世界で海藻を食べる民族は少なく、アジアの中で古代黒潮に乗って北上した海人族の定住地域だけに、いまもその食習慣が息づいている。
海女(ヘーニョ)はアワビやサザエなど金になる貝類ばかり採るわけではなく、以前は食料として海藻を採っていた。
また、主たる採取目的である馬尾草(ホンダワラのこと)は肥料とした。
済州島は村落の立地位置によって山村,陽村、海村に分けられる。
山村は漢拏山の高原にあって牧畜をし、陽村(農業村)は海岸とは一定の距離を保って存在し、山村・海村に対し優位意識を持っている。

儒教が濃密だったむかしの韓国では、海女は賎しいとされた。
理由は三つある。
一つ目は身を労することが賎しいという儒教の考え方である。
この結果、農作業や薪割りや、果ては武術やスポーツまで身を労するとして、治者が行うことはなく、使用人のすることとなった。
二つ目は海村に住んでいることである。万人に受験資格のある科挙試験にさえ、海村(漁村)出身者には、明確な理由のないまま、受験資格すらなかった。
海村といっても畑を所有しているのだが、それでも漁業、特に潜り漁業をするということで、陽村からは賎しいとされて、漁業は賤業視され、海村の民は賤民視されていた。
三つ目は儒教が裸を厭うからである。
儒教では形式を重んじるため衣服を着ていることが華となり、裸は卑しく野蛮な存在と考えられていた。
それゆえ海女(ヘーニョ)が裸同然で仕事をするので、儒教社会の国ではなおのこと賎しい存在とされていた。
日本人にはこういう儒教の感覚が欠落していて、殿様は先頭に立って労働をするし、人前で平気で裸になったりもするし、裸でスポーツする相撲も繁盛している。
司馬遼太郎は、泉靖一の引用した李氏朝鮮時代の済州島風土記を孫引きしているが、原文にはこう記されている。
「濳女は赤身露体にて海汀に遍満し・・・男女相混じりて以て恥と為さず、見る所驚く可し……」赤身露体とは、衣服を着けず肉体を露出していることであり、こういう風習を済州島風土記の筆者は明らかに賤視している。
商品経済が盛んになり海村の経済力が増すに連れ、陽村と海村の関係が様変わりし、「嫁に貰わぬ女」は陽村の女になった。
最後の「延喜式(えんぎしき)のふしぎから」は、耽羅紀行(済州島の旅)を終える時に触れたいと考えている。
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