阿武隈川(2007年)とおくのほそ道の旅 その30 須賀川で「軒の栗」の何伸庵跡へ
おくのほそ道の現代語訳では、この部分はこう書かれている。
二本松より右に曲がり、謡曲「安達原」で知られる鬼婆がいたという黒塚の岩屋を見て、福島で一泊した。
芭蕉はここでは見学したこと以外は何も触れていない。
黒塚は、福島県二本松市(元・安達郡大平村)にある鬼婆の墓である。
伝説の鬼婆は安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという。
謡曲「安達原」だけでなく、能の「黒塚」も、長唄・歌舞伎舞踊の「安達ヶ原」、歌舞伎・浄瑠璃の「奥州安達原」もこの黒塚の鬼婆伝説に基くという。
芭蕉のおくのほそ道の旅は、歌枕の地や古来からの伝説の地や景勝の地を訪ねての旅であるが、それは僕等の現在の観光旅行と多分に似たところがある旅でもある。
人食い鬼の住んでいた地も、りっぱな観光の地なのである。
僕も芭蕉を真似、黒塚の岩屋を見て、何のコメントも書かずに次の須賀川に向かった。
須賀川の章は、おくのほそ道の現代語訳ではこんなふうに書かれている。
須賀川の駅で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。
「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」
風流の 初やおくの 田植うた
(白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった)
「何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」と語ればすぐに俳諧の席となり、脇・第三とつづけて歌仙が三巻も出来上がった。
この宿のかたわらに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をしている何伸という僧があった。西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した。
「栗」という字は「西」の「木」と書くくらいだから西方浄土に関係したものだと、奈良の東大寺造営に貢献した行基上人は一生杖にも柱にも栗の木をお使いになったということだ。
世の人の 見付ぬ花や 軒の栗
(栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をもあらわしているようで、おもむき深い)
須賀川は有名な「軒の栗」の地である。
芭蕉記念館で市内散策用の絵地図をもらって、さっそく「軒の栗」の何伸庵跡へ繰り出した。
2007年10月7日午前10時45分のことである。

歩いて10分程してこんな標識の場所に出たが、ここから何伸庵跡まであと70mだということである。
そしてここ須賀川での最初の目的の地何伸庵跡に到着、午前10時57分のことである。
ここでの芭蕉のことや句碑の経緯などが、右の掲示板に記載されていたので、拡大して紹介する。
句碑の上の栗の木は4代目で、相良等窮の子孫の寄贈によるもののようである。
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