探検家の歴史 第4部 その4 松田伝十郎(樺太探検と蝦夷地経営に活躍)
松田伝十郎は江戸時代の越後国出身の幕臣・探検家で、間宮林蔵と樺太を探検し、樺太見聞の実測図を作成した。
伝十郎は越後国頚城郡鉢崎村(現新潟県柏崎市)の貧農浅貝長右衛門の家に長男として生まれ、そこで道普請をしていた幕臣大西栄八郎にその才能を見出されて江戸に赴いて武士となるべく修行した。
その後、大西の同僚の松田伝十郎(先代)の養子になり、1808年に養父が没すると松田伝十郎の名を継いだ。
1799年2月、幕府はロシアの南下がしきりに伝えられる情勢に対処し北方防備を強化するため東蝦夷地を松前藩領から直轄とし、松平忠明を蝦夷地御用掛に任じて経営にあたらせた。
伝十郎は蝦夷地直轄に際して蝦夷地勤務を志願し、1822年に蝦夷地が松前藩領となるまで幕府御用掛として樺太探検と蝦夷地経営に従事した。
松前奉行支配下役元締となった伝十郎はアツケシに上陸、アブタ・エトモに赴任し越年した。
1803年には択捉島に赴任、そこで越年した。
1807年、幕府は松前藩を移封して西蝦夷地と樺太を直轄地とし、全蝦夷地を直轄統治することとした。
ここからが、今回の話の本番である。
1808年2月、伝十郎は樺太奥地と黒龍江下流の探検を命ぜられ、函館奉行支配下の間宮林蔵を従えて樺太を探検した。
その当時、樺太は大陸の一部と考えられており、未知の土地であった。
4月13日に宗谷を出航し樺太南端のシラヌシ(白主)に到着後、アイヌの人が案内する小さな舟に乗り、間宮林蔵は樺太を東海岸側から、松田伝十郎は西海岸側から二手に分かれて探検を開始した。
東海岸側を小舟で北上した林蔵は北知床岬に至り、これより北上を諦めて西海岸へ出た。
一方伝十郎はそのまま西海岸を北上し、ラッカ岬まで辿り着いた。
ラッカ岬は海に突き出た眺めのよい岩石岬で、北方を見ればマンゴー川の河口がのぞまれ、西方を見れば山丹の山河がはっきり眺められた。
この時の現地の聞き取りや、北に行くにつれて海が狭くなり浅瀬となり潮流も強くなることから、伝十郎はほぼ樺太が島であることを確信した。
林蔵も伝十郎などの案内でラッカ岬に行き、樺太が島であると確信した。
伝十郎はこのラッカ岬に、「大日本国境」の木柱を建てた。
同年10月、伝十郎は江戸に戻り、樺太見聞の実測図を幕府に提出した。
林蔵は翌1809年に再度渡樺し沿海州までおもむき、樺太が島であることを発見する。
松田が確信した海峡が間宮海峡とされたことについては、林蔵の探検報告書が幕府天文方高橋景保に提出され、景保が日本近海航図にカラフトを離島と表し、その地図がオランダ商館シーボルトによりMamia Str.として紹介されたからだという。
松田伝十郎ファンは、松田海峡でなく間宮海峡となってしまったのは、功名心の強い林蔵が探検隊長である伝十郎を差し置いて自ら幕府役人高橋景保に報告したからだといっているとか。
伝十郎の地元である新潟県米山町の人々は松田のカラフト探検を称え、「カラフトは離島なり、大日本国境と見きわめたり」と刻んだ碑を建立している。
松田伝十郎の偉大さは樺太探検だけではない。
樺太が半島ではなく島であることを確認した翌年、伝十郎は再び樺太の地を踏んだ。
幕府の命令により白主で行われるアイヌと山丹との山丹交易【山丹交易とは、江戸時代に山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と、アイヌとの間で、主として樺太を中継地として行われた交易のこと。】の監視のためである。
当時の樺太における山丹人の交易は横暴を極めていた。
毎年夏になると数十艇の山丹船が白主にやって来て、樺太では得られないアワ・ヒエ・ムギや山丹青玉、綿などの物品を無理やり置いていき、高利をつけて1年後に決済するという山丹方式の商売をやっていた。
翌年交換する毛皮などが無い場合は、その質として子供や娘などを連れ去った。
伝十郎の前までは松前藩の役人が夏期の間だけやってきて交易の監視をしていたが、不正の取締はほとんどしなかった。
樺太南部に住むアイヌ人たちは山丹人に怯え、山丹人がやってくる時期になると貴重品を隠し、山奥に逃げ出す者も多くいたという。
西蝦夷地と樺太を直轄地に加え、全蝦夷地を直轄統治することとしたのに、直轄地の樺太南部に住むアイヌ人は交易に来る山丹人に怯え、山丹人もアイヌ人を暴力的なやり方で支配し、現地にいる松前藩の役人を馬鹿にしていた。
伝十郎は直轄地のアイヌへの強い思いから、山丹人との交易によるアイヌ人の抱え込んだ負債を幕府が肩代わりして払ったりもした。
また交易に来る山丹人に礼儀を守らせることも命じた。
具体的には会所に出入りする時は笠や履物を脱ぐこと、くわえタバコの禁止である。
伝十郎は強い態度で山丹人に接したため、赴任して1ケ月もすると山丹人の無礼な態度はまったく影を潜めたという。
松田伝十郎は偉大さな探検家だけではなく、有能な行政官でもあった。
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