奈良大和路散歩(2016年の旅) その12 相撲神社から檜原神社まで

太古の世界に、引き続き浸っている。

今いる場所は黄星印の「纏向日代宮跡」展望地で、黄四角内が「ほぼ纏向日代宮跡」である。

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これから歩いて50m程時間にして1分程のところにある、赤星地点の国技「相撲発祥の地」となっている相撲神社まで歩いていく。

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相撲神社は、大兵主神社神域内の小字カタヤケシと呼ばれる場所にあり、参道脇の広場が相撲神社の境内となっている。

境内の入口にこの小さな鳥居があり、その奥の広場中央に4本の細い桜の木に囲まれた空間があり、その空間が土俵となっているらしい。

相撲神社は、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天覧相撲を行ったところである。

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この小さな社が野見宿禰を祀る相撲神社の本殿で、その前に賽銭箱が置いてあったので小銭を入れた。

神社の境内には、相撲を取っている野見宿禰のレプリカが石に刻まれて建てられていたり、写真の右手には神社の謂れなどが書いてある案内掲示板が建てられていた。

案内版には、かつての大横綱である大鵬と柏戸がやって来て、ここで土俵入りをしたことなどが記されていた。

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大兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいわれているが、中には入らないでこのまま坂を下って、山の辺の道を檜原神社の方向に向かって進んだ。

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25分ほど歩くと、「大和の青垣」と書かれた案内版のある、いかにも大和国らしい景色の良いところに出た。

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この案内版にはこう書かれていたが、「大和の青垣」の意味を、実感を持って感じることができた。


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大和の美しい景色に見とれているうちに、目指す檜原神社に到着した。

檜原神社は伊勢神宮の前に天照大神が奉られていた「元伊勢」の地で、檜原神社は「元伊勢」と呼ばれている。

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この檜原神社の入口には、現在の鳥居の起源となった「注連柱(しめばしら)」が建っていた。

注連柱とは、二本の柱を立てその間に注連縄を張ったものをいい、後に補強の意味もあり、柱間に貫(ぬき)、柱の上部に「笠木(かさぎ)」が設置され、現在の鳥居の形状になったとのことである。

鳥居は神社への入り口で、そこは俗域と聖域の境界でもある。

境内は広くは無いが清潔に保たれており、境内の奥に向かった。

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ここは三輪山を御神体としているため本殿や拝殿は無く、独特の形をした三つ鳥居だけがやたら目立っていた。

日本書記によれば、崇神天皇の代に国中に疫病が流行り多くの人民が死に絶える事態が起きた。

崇神天皇は「天照大神」と「倭大国魂神」という二つの神様を、宮中にて人と同じ場所でお祀りしているのが原因だと考え、「天照大神」を皇女豊鍬入姫命に勅して「倭の笠縫の邑」に、「倭大国魂神」を皇女渟名城入姫命に勅して「大和神社」に奉遷したと伝えられている。

この宮中から遷された最初の地「倭の笠縫の邑」の一番有力な候補地が檜原神社である。

繰り返すが、あくまでも神話の世界の話である。

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