天竜川の旅その35 尾張屋旅館にて(最終回)
天竜川を制覇し、今は浜松市天竜区二俣町二俣の尾張屋旅館にいる。
8番目の川であり今年の川でもある天竜川を制覇した喜びを噛み締めながら、夕食までの時間をのんびりと過ごしている。
この天竜川の旅では、中心材料となった秋葉街道そして遠山郷をしっかり歩き、一生の思い出となる数々の名シーンを頭の中に刻んだ。
名シーンとともに、浜松市海岸部から再び山岳地帯に戻る道中、手頃な食堂で野菜炒めライスの昼食を食べ、午後2時には尾張屋旅館に到着した。
この赤丸印Aの場所が尾張屋旅館である。
この尾張屋旅館に一旦荷物を置いて、夕食までの時間、二俣町の散策を楽しんだ。
この町には有名な二俣城(ふたまたじょう)があった。
そこまで車で行き、城址を歩いた。
二俣城は、遠江国豊田郡二俣(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった山城。天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。
元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した。
徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。
そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという。
二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突し、武田軍は大勝した。
12月28日には信玄は越前の戦国大名・朝倉義景に戦勝を報告するとともに織田信長を討つよう出陣の催促の手紙を送っている。
しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡した。
二俣城址下を流れる天竜川は、幾世紀にも渡る歴史の攻防など何のお構いもなく、悠然と下流に向かって流れていた。
二俣町を2時間程散策して、今夜の宿の尾張屋旅館に戻った。
天流川の旅は、洒落のつもりでは全くないが、この尾張屋旅館で幕となる。
尾張屋の夕食は、天竜川の幸のオンパレードで、ヤマメのカラ揚げや鮎の塩焼き、それに鯉の刺身などが食卓を賑わしていた。
僕はアサヒ純生を飲みながら、日本最長河川8番目の川を制覇した喜びに浸った。
ありがとう!!2009年の天竜川の旅。
今回の旅も、天に感謝、地に感謝、人に感謝の旅となった。
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