探検家列伝第4部 その9  一畳敷の松浦武四郎

探検家列伝第四部は18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍した日本の探検家達を取り上げたが、その最後として蝦夷地を探査し北海道という名を考案した松浦武四郎を取り上げる。
武四郎は19世紀初頭の1818年に誕生し、ほぼ19世紀を生き1888に没した、幕末から明治にかけての探検家である。
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彼は伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)に郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれた。
松浦家は肥前国平戸の松浦氏の一族で、中世に伊勢国へ来たといわれており、代々百姓の家で父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされている。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐり、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に蝦夷地探検に出発する。
武四郎の蝦夷地探検は28歳の時が初めてで、この時は東蝦夷地を調査している。
以下、29歳の時に2回目の探検で西蝦夷地、32歳の時に3回目の探検で千島等の調査、39歳の時に4回目の探検で樺太を調査、武四郎の探検は41歳の時の6回目の東蝦夷地調査を最後に終了し、江戸に住んだ。
ここでは武四郎40歳の時の第5回目探検となった、天塩川の探検を紹介する。
松浦武四郎の「天塩日誌」によると、松浦武四郎は18576月に天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検している。
日誌によると、武四郎は、4人のアイヌたちとともに石狩川河口から浜益港を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形で幌延、雄信内、中川、音威子府、美深と歩き、名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、現在の朝日町の源流近くまで到達している。
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158766日に天塩川の河口を出発し、623日まで天塩川源流地に留まっていて、71日には再び天塩川河口に戻っている。
 一行は丸木舟2艘に和人1(武四郎)、アイヌ人4(アエリテンカ、トセツ、エコレフ、キコサン)が乗り込み、米・味噌などの食料と縄・ムシロ・ゴザ・鍋などの野営道具を積み、初挑戦の北の大河「天塩川」を遡上していくのである。
野宿が半分、アイヌ人の家での宿泊が半分、食事は持参したものだけではなく、川で獲った魚や貝も食べている。
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天塩川探検は旧暦の6月で、今の暦では7月下旬頃のこと、昼間はブユ、ヌカカ、アブ、夜は蚊に悩まされ、野宿の時は火を焚いたり蚊帳を張ったりして蚊の攻撃を防いだ。
 北海道を含めて寒冷地に生息する蚊の怖さは半端ではない。
蚊は黒い雲のようになって人間を襲い、人間は全身を刺されて、そのかゆさに飛び上がる。
カヌーイストの野田知佑の、北極海に流れ込む大河マッケンジー川での探検物語「北極海へ」を読むと、極北の蚊の凄まじさは想像を絶する程度であるのがよく解る。
松浦武四郎の丸木舟の旅も、同じようなものだったと推測される。
大便をするのも冗談ではなく命がけとなるので、野田知佑も松浦武四郎も蚊やブユに刺されないように、川に入って水に浸かりながら用を済ませたと記載している。
松浦武四郎は天神(菅原道真)を篤く信仰し、余生を著述に過ごしたのだが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。
70歳を前に足腰の衰えを感じていた武四郎は、もう旅をすることは難しいと思ったのだろう、全国の知人に頼んで、各地の古社寺などから古材を贈ってもらい、これを組み合わせてたった一畳のスペースしかない書斎を自宅に増築した。
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古材は島根の出雲大社や広島の厳島神社、吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居、京都嵐山渡月橋の橋げたなどで、北は宮城県から南は宮崎県までいろいろなところから贈られてきた。
この有名な一畳敷の書斎を武四郎は「草の舎」(くさのや)と呼び、今までの旅の人生を思い出す場所とし、夏は一畳の部屋いっぱいに蚊帳を吊って寝起きをしていたという。

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