茶の本 全文紹介 第1章 人情の椀 NO4

 不思議にも人情は今までのところ茶碗に東西相合している。
 茶道は世界的に重んぜられている唯一のアジアの儀式である。
 
白人はわが宗教道徳を嘲笑した。
 しかしこの褐色飲料は躊躇もなく受け入れてしまった。
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 午後の喫茶は、今や西洋の社会における重要な役をつとめている。
 
盆や茶托の打ち合う微妙な音にも、ねんごろにもてなす婦人の柔らかい絹ずれの音にも、また、クリームや砂糖を勧められたり断わったりする普通の問答にも、茶の崇拝は疑いもなく確立しているということがわかる。

 渋いか甘いか疑わしい煎茶の味は、客を待つ運命に任せてあきらめる。
 この一事にも東洋精神が強く現われているということがわかる。

 ヨーロッパにおける茶についての最も古い記事は、アラビヤの旅行者の物語にあると言われていて、879年以後広東における主要なる歳入の財源は塩と茶の税であったと述べてある。
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 マルコポーロは、シナの市舶司が茶税を勝手に増したために、1285年免職になったことを記録している。
 ヨーロッパ人が、極東についていっそう多く知り始めたのは、実に大発見時代のころである。
 十六世紀の終わりにオランダ人は、東洋において灌木の葉からさわやかな飲料が造られることを報じた。
 ジオヴァーニ・バティスタ・ラムージオ(1559)、エル・アルメイダ(1576)、マフェノ(1588)、タレイラ(1610)らの旅行者たちもまた茶のことを述べている。
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 1610年に、オランダ東インド会社の船がヨーロッパに初めて茶を輸入した。
 
1636年にはフランスに伝わり、1638年にはロシアにまで達した。

 英国は1650年これを喜び迎えて、かの卓絶せる、かつすべての医者の堆奨するシナ飲料、シナ人はこれをチャと呼び、他国民はこれをテイまたはティーと呼ぶ。」と言っていた。

 この世のすべてのよい物と同じく、茶の普及もまた反対にあった。
 ヘンリー・セイヴィル(1678)のような異端者は、茶を飲むことを不潔な習慣として口をきわめて非難した。
 ジョウナス・ハンウェイは言った。(茶の説・1756)茶を用いれば男は身のたけ低くなり、みめをそこない、女はその美を失うと。
 茶の価の高いために(1ポンド約15シリング)初めは一般の人の消費を許さなかった。
 「歓待饗応用の王室御用品、王侯貴族の贈答用品」として用いられた。
 しかしこういう不利な立場にあるにもかかわらず、喫茶は、すばらしい勢いで広まって行った。
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 十八世紀前半におけるロンドンのコーヒー店は、実際喫茶店となり、アディソンやスティールのような文士のつどうところとなり、茶を喫しながらかれらは退屈しのぎをしたものである。
この飲料はまもなく生活の必要品-課税品-となった。
 これに関連して、現代の歴史において茶がいかに主要な役を務めているかを思い出す。
 アメリカ植民地は圧迫を甘んじて受けていたが、ついに、茶の重税に堪えかねて人間の忍耐力も尽きてしまった。  
アメリカの独立は、ボストン港に茶箱を投じたことに始まる。

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