探検家の歴史 第4部 その6 伊能忠敬( 日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした人)

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 伊能忠敬は足かけ17年をかけて全国を測量し、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした人である。(下図は伊能地図であるが、今とほぼ同じ、伊能のすごさは、こういうことである。)


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 忠敬の測量の旅は第1次から第10次測量までの10回で、探検と言えるようなものは第1次測量を行なった1800年の蝦夷地太平洋岸の測量の時くらいのようである。

 この時の測量部隊の編成は、忠敬、息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人の計9人で、これに馬2頭が加わった。

 探検家として高名なのは彼の弟子の間宮林蔵で、林蔵は江戸時代末期の19世紀初頭に日本の北辺に20年以上滞在し、蝦夷・千島列島・樺太において数々の業績を残した。


 また伊能忠敬に戻る。

 忠敬は初名を神保三治郎といい、1745年に千葉県九十九里町に生まれ、1762年17歳の時に佐原の酒造家伊能家の婿養子となった。


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 忠敬が来た時伊能家は家業が衰え危機的な状況だったが、忠敬は倹約を徹底すると共に本業の酒造業以外にも薪問屋を江戸に設けたり米穀取り引きの仲買をして、約10年間で経営を完全に立て直した(29歳の時の伊能家の年間収益は351両=約3500万円)。

 36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では私財をなげうって米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力し、忠敬の村は一人の餓死者も出さなかったという。


 1793年(48歳)の伊能家の収益は1264両(約1億2640万円)にまで増えた。

 商人として大成功した忠敬だが、50歳を機に家業を全て長男に譲って隠居すると、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為江戸へ出て、深川黒江町に家をかまえた。


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 忠敬が江戸に家を構えた春に、当時の天文学の第一人者である高橋至時(よしとき1764-1804当時31歳)と間重富(1756-1816/当時39歳)が幕府の天文方に登用されていた。

 この2人は大阪で日本初の月面観測を行った麻田剛立の一門のツートップで、忠敬は高橋至時を訪ね弟子入りした。

 至時は20歳も年上の忠敬の入門を「年寄りの道楽」だと思っていたが、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。


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 やがて忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功した。

 その頃、高橋至時と間重富は新たな暦(寛政暦)を完成させたが、至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。

 「いったい地球の外周はどれくらいなのか」、暦局の人々の間でも丸い地球の子午線1度の長さについて、25里、30里、32里など意見が分かれていた。

 忠敬が「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案したことが、結果として日本地図を作ることにつながった。


 当初の目的は蝦夷地まで行って蝦夷地から江戸までの距離を測り、子午線1度の正確な長さを割り出し、暦の精度を上げることだった。

 それでは幕府の許可が降りないので、至時が考えた名目が「地図の制作」だった。(この頃ロシアをはじめ列強が日本に接近し、国防のための正確な地図が必要だった。)

 忠敬の測量の旅を見ると、当時の幕府と日本の状況がよくわかるので、もう少し忠敬を見て行きたい。

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