秋田県散歩(2015年の旅)その15 菅江真澄の出羽・陸奥と蝦夷地の旅

信濃路から越後路を通り、1784年(天明4年)9月末、真澄は鳥海山麓の三崎坂(山形県遊佐町と秋田県象潟町の境の三崎峠)を下って、秋田県に初めて足跡を印した。

ここから、二 出羽・陸奥の旅(秋田、青森、岩手、宮城)の始まりである。

ところで菅江真澄が歩いた、二 出羽・陸奥の旅、三 蝦夷地の旅、四下北・津軽の旅は、僕が旅した2015年の秋田県散歩、2014年の松前街道の旅、2013年の津軽街道の旅に、歩いた場所の多くが重なる。

旅した時は菅江真澄の名が旅先で出てきても全く気にもとめていなかった、というよりその時は真澄を知らなかったのである。

先人の旅人を知らないで、街道をゆくを参考書として東北・道南の地を歩いて来た。

従って、この秋田県散歩の菅江真澄の旅については、過去の旅を頭に思い浮かべながら旅することとした。


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話を戻して、真澄は象潟から鳥海山の北側を通り雄勝郡柳田(湯沢市)で1785年(天明5年)の正月を迎えた。

真澄はここで半年以上も世話になり、5月に湯沢を出発して久保田(秋田市)付近を通り、8月には山本郡を経て津軽に入った。

能代、深浦、小泊などの名が目に留まるが、深浦で確か菅江真澄の名を目にしたことが記憶に残っているが、ネットで調べて見ると真澄は深浦の円覚寺を旅の宿としていたことが確認できた。

真澄は青森から蝦夷島に渡るつもりだったが予定を変更し、青森から矢立峠を超えて領大館(秋田藩)に入り、その後鹿角郡で南部藩領に入り、二戸郡、和賀郡黒沢尻、胆沢郡前沢へと進んで年を越した。

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1786年(天明6年)の正月は胆沢郡徳岡から平泉の中尊寺に向かった。

天明6年〜天明8年にかけては仙台藩領と南部藩領にいて、地方の歌人をはじめとする有識者と交際するとともに、みちのくの歌枕の地を訪ね歩いて、中尊寺や松島や仙台などを含む各地を巡った。

1788年(天明8年)春に松島の桜を見た真澄は、7月に津軽半島の宇鉄(三厩村)から小舟で北海道に渡った。

これから、三 蝦夷地の旅となる。

翌年の正月は福山(松前)で過ごしたが、1月中に年号が天明から寛政に変わり、真澄は寛政4年(1792年)10月までおよそ4年間北海道に滞在した。

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当時の北海道は松前藩が支配する和人地とそれより北の蝦夷地に分かれていた。

真澄は北海道滞在期間のほとんどを松前藩の城下ですごした。

その間、渡島半島の和人地の松前・上ノ国・江差・函館など歩き、境界を超えて蝦夷地の太田や長万部や虻田・有珠にも行った。

この間北海道では、アイヌの人々の松前藩の圧政に抵抗した「クナシリ・メナシの乱」やロシア使節ラクスマンの根室来航など大きな出来事が相次いだ。

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江戸時代前期においては蝦夷地(北海道)は異国であったが、18世紀の後半になると蝦夷地には和人の実質的な支配が浸透し、その考え方は大きく変わった。

ラクスマンの根室来航の頃は、老中松平定信は蝦夷地が異国であるという認識だったが、本多利明(漢字を放棄して能率的なアルファベットを導入せよと説いた他、ロンドンと同じ緯度に遷都すれば日本の首都もロンドン同様に繁栄するであろうとの理由から、カムチャツカ半島への遷都を説くなど、ヨーロッパ諸国をあまりに理想化していた江戸時代の数学者にして経済思想家)は西域物語の中で、蝦夷地を日本の属国と捉えその開拓を主張、この考えを受け継いだ最上徳内(江戸時代中後期の探検家)はアイヌ人と和人を同一の人種とみる「同祖論」を生み出した。

真澄が蝦夷地にいた頃は、蝦夷地の大きな転換期でもあった。

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