直江兼続の旅 その17 松苧神社

 最初に松苧神社に行った。

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 松苧神社は807年に坂上田村麻呂が奴奈川姫を祀るために創建したと伝えられる社殿で、本殿は、1497年建立の木造茅葺きで、県内最古の建築物として国の重要文化財に指定されている。

 坂上田村麻呂が奴奈川姫を祀るために創建した神社とは驚いた。

 坂上田村麻呂まで辿り着く前段の話をここで記す。

 今の日本人の祖型となった人々は、ウルム氷期の狩猟民の子孫である縄文人と、農耕の技術を持参して大陸から日本列島へ渡来した弥生人である。

 彼らが混血して日本人の祖型が出来上がり、古墳時代の大和朝廷の勢力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていく。

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 7世紀後期の天武・持統期の律令制導入は天皇中心の国家体制を確立させ、13世紀の元寇は日本民族に「日本」や「日本人」という意識を浸透させていく契機となった。

 天皇を中心とする日本の国の北方辺境への進出は、稲作文化による狩猟採取文化の淘汰でもあった。
 古代、本州東部とそれ以北は日本の管轄外の地域であり、そこに住んでいたのは日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた蝦夷と呼ばれた集団だった。

 蝦夷と呼ばれた集団はアイヌばかりではなく、日本人につながるものもいた。

 蝦夷についての形式上最も古い言及は「日本書紀」で、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされる。(この頃は大和地方も蝦夷地だった。)


 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。

 日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。

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 最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた伊治呰麻呂、789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。

 ここでようやく、坂上田村麻呂が登場する。

 日本(桓武政権)は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服したのである。

 坂上田村麻呂は当時の日本の国の北方辺境への進出を先頭になって進めた人で、結果的に稲作文化による狩猟採取文化の淘汰を進めた人でもある。

 そして、松苧神社に祀られた奴奈川姫である。

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 古代、姫川下流の越(高志)の国に、奴奈川姫という才色兼備の女性がいた。

 その噂を聞き、出雲の国の大国主の命が姫に求婚したと、古事記には記されている。(この話は、出雲の国による越の国平定ともとれる。)


 大和の国の成立以前の弥生時代には、出雲、筑紫、越などの日本海沿岸に大きな勢力があったと考えられ、これらの地域は対馬海流を利用する海上の道で結びつき、中国や朝鮮半島とも交易があった。

 日本海沿岸地域から翡翠(姫川産)などが中国や朝鮮半島に渡り、日本海沿岸地域へは鉄などが伝えられたということである。

 松苧神社がどういう目的で造られた神社であるか、少しわかったような気がする。

 いずれにしてもここは、蝦夷では無くて日本の国である。

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 松苧神社は、ここから歩いて20分ほどで行ける場所に建っている。

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