探検家の歴史 第4部 その7 伊能忠敬その2(第5次測量まで)

 ここで第1次測量から第10次測量までを一覧表で見てみる。


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 最初は忠敬一家(息子、弟子、下男、人足)程度の規模の測量で測量費用も自腹だったが、第三次測量(1802年~東北日本海側)からは測量地の藩の協力が得られ、手当も支給されて収支トントンに近づいた。

 第五次測量(1805年-1806年~近畿・中国地方)からは幕府直轄事業となり、測量隊員には幕府の天文方が加わり測量隊は16人に増え、各藩の受け入れ態勢が更に強化され、測量隊は時に100人以上になることもあったという。


 では、第一次測量(1800年~蝦夷地太平洋岸)から個別に見ていく。

 1800年(55歳)4月19日、富岡八幡宮に参拝後自宅から蝦夷へ向けて出発。

 奥州街道を北上しながら測量を開始した。

 一行は忠敬、息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人の計9人、これに馬2頭が加わった。

 測量方法は、歩幅が一定(約70cm)になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、そこから距離を計算するというもの。

 夜は宿で天体観測を行い、昼間に得た測量結果と両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。


 忠敬一行は、寒くなる前に蝦夷測量を済ませるべく、1日に約40kmを移動した。

 出発から21日目の5月10日、津軽半島北端(三厩/みんまや)に到達する。


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 天候不順で船が出ないなど、苦労しながら箱館に入った。

 上陸から10日経った5月29日から本格的に蝦夷地で測量を開始、蝦夷地は宿が無いため、村の集会所や役人の仮家で眠った。

 一行は東へ進み、8月7日に釧路より先のニシベツ(別海町)まで達したが、漁の最盛期で多忙な地元民の協力を得られず、東端の根室までは行けなかった。


 江戸に向かって一路南下し、10月下旬、180日ぶりに帰宅した(蝦夷滞在は117日)。

 測量で得たデータを元に、約3週間をかけ地図が完成。

 12月21日に地図を下勘定所に提出し、一週間後に測量手当として22両(約220万円)を受け取ったが、70両(約700万円)以上を負担した。

 これとは別に自腹で70両分の測量機具を購入しており、計140両(約1400万円)以上の身銭を切った。


 第二次測量(1801年~伊豆・東日本太平洋側)のため、1801年4月2日に江戸を出発。


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 今回は街道を管理する道中奉行から測量隊来訪の先触れが出され、各地で地元の協力を得やすくなった。

 測量法も、前回のような歩測ではなく、一間(約180cm)ごとに印がついた縄を使って測量。

 三浦半島、鎌倉と回って伊豆下田に到着したのが5月13日で、伊豆の断崖絶壁の測量は海上で縄を張るなどして測った。

 いったん江戸によって6月19日に房総半島へ出発、7月18日に関東西端の銚子に到着。

 太平洋沿いを北上し、東北に入って地形が入り組んだリアス式海岸に苦闘しながら10月1日に岩手・宮古湾を越え、10月17日に目標地点の下北半島・尻屋にたどり着いた。


 12月7日、230日間の測量を終え江戸に帰還し、地図を幕府と藩主に提出した。

 また、子午線一度の距離を28.2里と導き出した。


 第三次測量(1802年~東北日本海側)のため、6月11日に江戸を出発。

 第一次測量の頃とは大きく違い、藩から人足5人、馬3頭、長持人足4人が与えられ、手当も60両支給された(収支トントンに近づいた)。

 一行は白河、会津若松、山形、新庄を経て、7月23日に秋田の能代に到着。

 日食の観測を行いながら、8月15日には三厩に到着した。


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 その後、秋田の沿岸を男鹿半島、象潟と測量しつつ南下、10月4日に新潟の現上越市に達したが、冬に突入することもあり、これで日本海を離れ10月23日、132日ぶりに帰宅。

 東日本地図の完成は次の測量に持ち越された。


 第四次測量(1803年~東海・北陸地方)のため、2月25日に江戸を出発、旅費は82両(約820万円)まで増額された。

 沼津、御前崎、渥美半島、知多半島と測量を行い、5月6日に名古屋に入った。


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 そこから北上して岐阜を通過し、5月27日に福井・敦賀に到着したが、その後の約1カ月は複数の隊員が病気になり、父子だけで測量することもあったという。

 6月24日から北陸の加賀藩に入ると、藩の地理情報が外部に漏れることを警戒して現地案内人が地名を黙秘するなど抵抗にあい難儀。

 能登半島や佐渡は測量効率化のため二手に分かれて行動し、9月17日に佐渡を離れ、10月7日、219日ぶりに江戸へ戻った。

 ここに3年がかりで行った東日本の海岸線測量が完結した。


 帰宅後、さっそく当初の目的であった地球の大きさの計算に取り組むと約4万キロいう結果になり、師の高橋至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると数値が一致した。

 忠敬が弾き出した数値は、地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった。

 それから間もなく、至時は39歳の若さで他界、天文方には跡継ぎとして子の高橋景保が登用された。


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 1804年(59歳)、これまでの測量データを「日本東半部沿海地図」としてまとめあげる。(大図69枚、中図3枚、小図1枚という大規模なもの。)

 同年秋、11代将軍徳川家斉と江戸城大広間で接見、地図の精密さに幕閣は驚愕、忠敬も位が上がった。


 次は、九州、四国を含めた西日本地図の作成である。


 第五次測量(1805年-1806年~近畿・中国地方)のため、2月25日に江戸を出発。

 忠敬は60歳となり、この測量から幕府直轄事業となる。

 測量隊員には幕府の天文方が加わり一行は16人に増え、各藩の受け入れ態勢が強化され、測量隊は時に100人以上になることもあったという。

 忠敬は暦方から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為ではなく、人の為、天下の為に命がけでやるという。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。


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 浜松、紀伊半島を経て、大阪に入ったのが8月18日。

 京都を経由して琵琶湖を37日かけて測量、その後中国地方に向かったが、想定以上に瀬戸内の海岸線が入り組み、姫路沖の家島諸島の測量にも手間取り、大晦日を岡山で迎えた。

 1806年1月18日に岡山を出発、本格的に瀬戸内海の島々の測量を開始した。

 3月29日に広島到着、防府を越えて4月30日に秋穂浦(現山口市)まで来たところで忠敬はマラリアを発症。

 それでも下関まで達してさらに山陰へ向かい、6月18日より松江にて治療逗留した。

 忠敬が闘病している間に隊員たちは隠岐を測量し8月4日に松江で合流。

 忠敬は治って山陰の日本海沿岸を東に進んだ。(忠敬不在の1カ月半の間に、隊員たちは飲酒したりして風紀が乱れ、幕府の知ることとなり景保から戒告状が届いた。)

 島根、鳥取、若狭湾を測量して山陰の測量を終え、11月15日、1年9カ月ぶりに江戸へ帰着。

 近畿・中国地方の地図制作はデータが多く、作図に1年を要し翌年末に完成した。


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