秋田県散歩(2015年の旅)その17 菅江真澄と奈良家

奈良家入口と書かれていて赤い矢印で示されている日常の出入り口となっていた下手中門から中に入った。

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旧奈良家住宅は入口が二つあり、当時身分のある客は上手中門(写真左方向)から入り、身分の低い者は日常の出入り口となっていた下手中門から入った。(菅江真澄もここから入ったという。)

旧奈良家住宅は、江戸時代中期の宝暦年間(1751~1763)に9代目喜兵衛によって建てられた両端が前面に突き出す「両中門造り」の、秋田県中央海岸部を代表的する大型農家建築物である。

屋敷を建てた棟梁は土崎の間杉五郎八で、3年の歳月と銀70貫(現在の約6000万円)が費やされた。

ここで奈良家の間取りを紹介する。

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赤矢印のように奈良家に入ってきたが、右手が馬やで土間の上を歩いて行き、おえから上がると、中座敷、寝間、上座敷などが続いている。

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右側に太い八角形の大黒柱が建っている土間を歩いて行く。

世界的建築家ブルーノ・タウトが奈良家住宅を訪れた際に、「太い柱が何本もある入口の土間が一番すぐれていた」と記しているが、堂々とした風格を感じさせる土間である。

左奥階段を上がるとおえである。

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おえは接客用の部屋で、中央に囲炉裏が切られていて、以前は板敷だったが江戸末期から明治初期にかけて畳を入れたという。

真澄は伝承によれば、奈良家に滞在中は上座敷と呼ばれる奥六畳の間を書斎として使っていて、当主は身分のない漂泊者であった真澄を大変手厚くもてなしていたという。

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僕があぐらをかいて座っている部屋がその部屋である。

ここに、秋田藩校明徳館の学者であった那珂通博(なかみちひろ)がやってくる。

那珂は領内の様子を書いた文章に自信がなく菅江真澄に密かに添削を頼んでいたが、それほど真澄は秋田藩に高い評価を受けていた。

奈良家の庭に出てみた。

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ルーノ・タウトの評価はどうだったか知らないが、ここもなかなかの庭である。

奈良家に滞在中に、真澄は藩主佐竹義和にはじめて会い、出羽六郡の地誌を作ってほしいと頼まれる。

司馬遼太郎の「秋田県散歩」には、次のように記されている。

「真澄は半生、権力者というものに近づかなかった。しかし、佐竹義和という殿様だけは、例外だった。・・・本来、真澄は旅に死ぬことを覚悟していただろう。死ねば、彼の書いたものは当然散逸する。義和に会うことによって、それらが良質の筆写本となり、後世に残ることになった。とすれば、この奈良家で那珂通博に出会ったことは、世界の民俗学上の一事件といっていい。」

道に迷ったりしながら、1時間程掛けて秋田市中心街に戻った。

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市街地にある赤レンガ郷土館の近くの寿司屋で寿司の昼ランチを食べたが、いくらだったかはメモにも取らなかったので不明である。

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