秋田県散歩(2015年の旅)その19 栗田定之丞と栗田神社
菅江真澄の次は、「街道をゆく 秋田県散歩」の中で司馬遼太郎に、秋田における最大のの先人と持ち上げられている「栗田定之丞」が祀られている「栗田神社」を目指す。
栗田定之丞は、現在の能代市から秋田市までの120kmにわたる砂丘地一帯に植樹し、田畑や家屋が砂に埋められることのない黒松の砂防林を完成させた人である。
小黄点の菅江真澄の墓地から黄実線に沿ってはまなすロードを南下し、黄星印の位置の栗田神社に向かっている。
秋田県の海岸線の延長は263kmに及ぶが、このうち八森浜田、男鹿半島、金浦・象潟の岩礁地帯を除くと全て砂丘の発達した砂浜である。
その砂浜には、秋から早春の半年間シベリアから吹きつける北西の季節風が絶え間なく日本海の荒波と飛砂を叩きつける。
海沿いの村々では、田畑や道路や家までも埋め尽くしてしまう飛砂の被害に苦しんでおり、それを防ぐべく多くの篤志家たちが砂防林の造成に心血を注いでいた。
はまなすロードを走り栗田神社あたりに到着、ここまで20分程で来たが肝心の栗田神社に到着できず、車を空き地に停めてそのあたりの住人に聞いて、5分程歩いてようやく栗田神社に到着した。
これは1832年に刻まれた「栗田君遺愛碑」で、毎年冬の季節風に苦しんでいた新屋村の住民が、栗田定之丞が自分が考案した植林法で砂防林を完成し村を蘇らせたことを感謝して、彼の遺徳をたたえるために建てたものである。
鳥居の前で頑張っている左右の狛犬に軽く挨拶してから、鳥居をくぐって前へ進む。
栗田定之丞の植林法は、緻密な観察結果に基づいて、まず古ワラジやカヤを束ねて飛砂を防ぎ、その後方に柳やグミを植えていき、根付いたら松苗を植えるというものであった。
ようやく本殿に到着、時間は午後3時33分である。
秋田県散歩の中で司馬遼太郎は書いている。
「栗田定之丞の死後も、栗田方式の植林法によって、黒松がうえられてゆき、江戸末期には、数百万本の松原が、秋田藩領の長い海岸をまもるようになった。これらの松原こそ、秋田藩の長城というべきものだった。」
秋田藩の長城を造った先人にたどり着き、彼を祀ってある神社を制覇したことを祝して、ここで片手ガッツポーズでの記念撮影を行なった。
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