大阪散歩 その37 覚鑁の仏教哲学「密厳浄土」思想

聖天堂を出て、堂の前にある聖天池を、覚鑁のことを考えながら歩いている。
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空海の思想と覚鑁の思想の違いについては先ほど書いたので、今度は覚鑁について記していく。

覚鑁は鳥羽上皇の病を治すなどして上皇に可愛がられ、若手抜擢されて高野山では大学総長のような仕事をしていた人である。

35歳で古式な真言宗の伝法を体得し、空海以来の才と称されると、1130年には高野山内に伝法院を建立する。
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当時の高野山は、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が大勢居て、真言宗が腐敗衰退してしまった現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出た。

1132年、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て高野山に大伝法院と密厳院を建立、大伝法院座主に就任したのを皮切りに、さらに2年後の1134年には金剛峯寺座主をも兼ねて、事実上同山の主導権を制して真言宗の建て直しを図った。

しかし、当然この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、遂に1140年に覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払った。

結局高野山を追われた覚鑁は弟子一派と共に大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺に拠点を移し、やがて根来寺を成立させていくのである。
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1143年に覚鑁は入滅して根来寺奥之院の霊廟に埋葬された。

それ以後も金剛峯寺との確執は深く、1288年になって高野山大伝法院の学頭頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移し、覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を展開して発展させていくのである。

自力の真言宗に浄土思想という他力を取り入れ、天才でなくても即身成仏ができるという考え方を打ち立てた覚鑁は、個人的には非常に興味のある人物である。

覚鑁は真言宗においても、空海以外では唯一の仏教哲学「密厳浄土」思想を打ち立てた僧として高く評価されている。
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司馬さんは「空海の風景余話」に於いて、「空海以外で唯一の真言宗の哲学者」という捉え方をしており、真言宗智山派管長をされ・インド哲学者でもあった宮坂宥勝は、覚鑁は「鎌倉仏教全てを包摂した」としている。

この庭にいると、覚鑁の考えたことが少しは理解できるような気がした。

明日は空海の造った彼の思想のテーマパークのような高野山に行くが、今日はその前座として、密言浄土という考えを広めようとしてそう成功もしなくてむしろ失敗した覚鑁という人物と、彼の思想が造り上げた根来寺を散策した。

根来寺はこれで終わる。

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