日本最長10河川の旅で出会った「日本を代表する人物」その3 姫川 NO1「岡倉天心への旅」

 2002年から2011年までの10年の期間をかけて、「日本の最長10河川の源流から河口までの旅」を走破した。
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 この源流から河口までの旅の中で、「日本の国が誇る傑出した人物」と十数名出会ったが、魅力あふれる人物ばかりなので、このブログを借りて紹介する。


 2002年の信濃川の旅では島崎藤村と、同じ2002年の神流川の旅では内山節と、2003年の姫川の旅では岡倉天心と、2004年の阿賀野川の旅では野口英世と、2005年の利根川の旅では萩原朔太郎と、2006年の北上川の旅では宮沢賢治や石川啄木と、2007年の最上川の旅では松尾芭蕉や斎藤茂吉や直江兼続と、同じ2007年の阿武隈川の旅では伊達政宗や松尾芭蕉と、2008年の木曽川の旅では島崎藤村や福澤桃介と、2009年の天竜川の旅では柳田国男や後藤総一郎と、2010年の石狩川の旅では小林多喜二や三浦綾子と、2011年の手塩川の旅では松浦武四郎と出会った。

 3回目は、2003年8月に旅した「姫川の旅」で出会った岡倉天心である。

 「姫川の旅」には実はもう一つの大きな目的があったが、それは僕が二十代の後半から心に温めていた1人の偉大な先人の足跡を訪ねることだった。

 その名は「岡倉天心」、日本近代史に巨山のようにそびえる高名な人物である。

 明治という時代は岡倉のような巨星を多数輩出した時代だが、その中でも頭一つ抜き出た巨星であると、彼のファンである僕は考えている。

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 「姫川の旅」の帰りに、岡倉天心の終焉の地である新潟県上越地方の赤倉温泉に立ち寄った。

 赤倉温泉には以前からスキーや仲間の旅行で何回か出掛け宿泊したことがある。

 その時に岡倉天心堂を覗いたり、その辺りを散策したことがあったが、天心ゆかりの地としての赤倉は、茨城県の五浦よりは有名でない。

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 五浦には過去に2回程出掛けたことがあり、ここに県立天心記念五浦美術館が建てられている。

 一度目は結婚前のことで、よく覚えていない。

 ただ近くの平潟港の印象が、何回か旅したことのある佐渡の小木港の外の澗の印象と似ているのを覚えている。

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 ここに来たことは無いけれどもどこかでこの景色に出合ったことがある、そんな経験は誰でもあることだが、僕は明確にその景色が日本海と太平洋の違いはあるけれども、場所を特定できる、鮮明ではないが曖昧でもない記憶があった。(夢の中で出合った風景と、今は思っているが・・・)


 二度目に行ったのは平成9年の12月の末で、その時は北茨城市磯原の「磯原シーサイドホテル」という中程度のホテルに泊まり、その夜は鮟鱇鍋を食べた。

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 翌朝は早く目覚め、太平洋から遡上する真っ赤に染まった朝日をホテルの窓から長い間眺めていた。

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 この時の僕の心象風景としては、雄大な太平洋の眺めを眼前にして、昇り来る巨大な太陽に圧倒されながら、昔日の岡倉天心の心情を追体験出来る喜びで心が一杯の、言わば純粋な一ファンの気持ちだったと考えている。

 その時の磯原シーサイドホテルマッチは今でも埃に塗れながら、文庫本の書棚の上に置かれている。



 五浦から再び「姫川の旅」に話を戻す。

 姫川の河口から源流までを走破し、安曇野の地で遊んだ後、長野自動車道を一気に北上して、2003年8月4日の3時頃に赤倉温泉に入った。

 岡倉天心の旧・史跡に立ち寄ったこの時の僕の年齢は51才、いつの間にか岡倉天心がその生涯を閉じた年齢と同じになっていた。

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 同じ年齢になって見ると、やはり現代の51歳は若い。

 今仮に岡倉天心のように人生の終焉を迎えるとすれば、夭折という言葉で片付けられる年齢で、天心終焉の年にいつの間にか僕は達していたのである。

 温泉街の入り口を左折してほんの数百メーターも走ると、そこに天心遺跡の赤倉山荘があり、その敷地内に六角堂と岡倉天心の墓が築かれている。

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 以前2回程旅した北茨城の五浦海岸にも同じような六角堂と天心の墓が築かれていたが、残念ながら墓も六角堂も五浦海岸の方が風格がある。

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 五浦には県立の天心記念五浦美術館が建設されており、日本美術院の当事の高い理想を現在に伝える重要な建物として地域住民や観光客に開放されている。

 
 2002年8月9日の新潟日報の朝刊に、新潟日報60周年記念事業として「妙高バルビゾン」構想が取り上げられていた。

 バルビゾンはフランスの首都パリ南部の農村で、19世紀中頃にミレー、ドラクロア等のフランスを代表する風景画家が住み、フォンテンブローの森などを描いた場所である。


 「バルビゾン構想」とは、天心が西洋の新美術運動の拠点になったフランスのバルビゾンにあやかって、「東洋のバルビゾン」を提唱し、赤倉に山荘を設けて芸術活動の拠点を構想した史実に基づき、岡倉天心終焉の地・ 妙高高原町をはじめ妙高山麓の広域五市町村が自然や歴史を生かし、絵画や音楽などの文化活動を軸に地域活性化を図ることによって、都市住民、更には諸外国の人々と交流を図る構想。
 天心が唱えた「東洋のバルビゾン」を目指して、すでにスタートしている構想である。

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 岡倉天心生誕百四十年にちなんだこの記念事業は2002年の7月25日、天心が生涯を終えた妙高高原町の赤倉山荘で開かれた。

 出席者は東京芸術大学学長の平山郁夫、参議院議員の有馬朗人、新潟県知事の平山征夫の三氏で、司会進行を新潟日報社長の五十嵐幸雄氏が行なった。

 それぞれの切り口で岡倉天心を語りながら、自分の人生観・世界観を語っていく対談の要旨は新潟日報の8月9日の記事に取り上げられ、後日、対談の全様は新潟日報社から「今なぜ 天心か バルビゾンか」というりっぱな装丁の本として2003年1月に出版された。

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 岡倉天心の「東洋は一つ」というビジョンを、美術や広く言えば芸術の面で具体化して行こうという地方活性化事業は、岡倉天心の志を受け継ぎ後世に伝えて行こうとする意思の表われで、一人の偉大な先人への供養になると考える。

  

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