日本最長10河川の旅で出会った「日本を代表する人物」その6 北上川 NO2 宮沢賢治の理想
賢治は、花巻で一、二を争う程裕福な商家に生まれた。
宮沢賢治生家
父親の政次郎は理財の才能のある人で、彼は知人にもし自分が宗教というものにまったく縁のない人間だったら、三井や三菱のような財閥を築いていただろうと語っていたというエピソードがあるが、それ程賢治の父は実務型の有能な人間で、一方賢治は短い教師生活を除いては一生正業に付くことのなかった、むしろ理財とは程遠い文学や芸術などの世界の才能に恵まれた人間。
賢治の妹シゲは、父も兄も両頭の蛇のようなものだと表現しており、父は大実業家になりたがっていて、賢治を高僧にでもさせたかったという。
しかし、賢治は父親のいう世俗的な成功は頭から否定していた。
何をやっても中途半端で結婚することもなく、成功とは程遠い、実務型の人間から見ればまるで一生子どものような人生を送った賢治だが、19世紀末の時代的な背景を考えると、賢治は典型的な地方の名望家の子弟という印象である。
ヨーロッパ、特にロシアを中心に始まった資本家・貴族階級を搾取する側の人間・悪人として否定し、民衆・農民を中心とする共産主義社会への転換を目指した世界的な政治運動の動きは、日本の社会でも例外ではなく、裕福な出身階級の子弟の中には農民や労働者に心情的に政治的に加担して、大衆の中に降りていくことに本当の価値を見出すものが多くいた。
この傾向は世界的な傾向で、特に裕福な家庭のインテリ層に沢山見られた。
特に「稲作挿話」の舞台となる羅須地人協会(羅須はロシアに繋がる)は、賢治が自分の農学思想を実践しようとした場であった。
羅須地人協会
この建物はもともと宮沢家の別荘として使っていたもので、豊沢川が北上川と出合う北上川右岸に建てられていたもので、賢治はこの羅須地人協会で地元の農家の青年たちを指導していた。
稲作挿話
あすこの田はねえ
あの種類では窒素があんまり多すぎるから
もうきっぱりと灌水を切ってね
三番除草はしないんだ
中 略
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのようにさ
吹雪やわずかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んでいく勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
当時の賢治の理想に燃えた姿勢がこの詩を読むと痛切に伝わってくる。
毎晩遅くまで議論したり教えたりしながら、自分でも畑に出ては米や野菜を作っていたのである。
「下ノ畑ニ居リマス」というフレーズの、文字を黒板に書いて、北上川のすぐ前の畑に出ては、自分の考えた理想の農業を実践していた賢治の姿が思い浮かぶ。
「農民芸術概論綱要」は賢治の宗教・哲学思想が詩の形となって作品化したもので、この詩の中に、例の有名なフレーズ「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」がある。
端的に言えば、自分や自分の家族だけ幸せでは、それは本当の幸せというものではない。
自分を含め、世の中に住む全部の人々が全員幸福な社会とならないうちは、不幸という状態のままだという意味である。
理想論と言って切ってしまえばそれで終わる言葉だが、この青臭い少年の見た夢のような世界が、賢治の作品や思想の全体を表現している。
こういう世界の実現のために、賢治は自分の持っているものを捧げて奉仕した訳だし、それが自分が世の中というものに対して出来る最大限の貢献であると確信していたのであろう。
まさに、父親の政次郎の描く世界、自分や自分の家族だけ幸せな世界とは対極の世界に目標を定め努力した賢治の姿勢は、結果はどうあれ、やはり称賛に値するものであろう。
今時の文学者と違い、当時の多くの文学者は赤貧の状態で詩や小説を書いており、そのため短命で無くなられる方が多かった。
なかなかお金にならない、実務家から見れば道楽に近い世界で一生を終えた賢治だが、その残された遺産は、多くの文学作品群の中でも何時までも輝きを失わない本物である。
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