「日本最長10河川の旅」で出会った日本を代表する人物 北上川への旅 その6 宮沢賢治を歩く
宮沢賢治の生きた時代は20世紀初頭の時代で、戦争や貧困が日常のように庶民に襲い掛かり、地方の裕福な階級として何不自由の無い生活をして来た心あるインテリ層を、突然革命家に変えるような時代だった。
北上川と豊沢川が合流する地点、豊沢川の右岸で北上川を臨む小高い丘の一角に、賢治が妹トシを失い、稗貫農学校の教員を辞めてから住んでいた羅須地人協会が建てられていた跡地があり、「下ノ畑ニ居リマス 賢治」と書かれた黒板が立っている。
その「下の畑」のあったと思われる辺りを、北上川沿いに歩いてみた。
「賢治の理想の世界は、世界が全体幸福を向かえる世界」であり、その目的のためには彼は自分の命さえも惜しくないと、物語や童話の中に登場する主人公に言わせている。
全体幸福の世界は、貧困や戦争があってはならない世界であり、賢治の生きた20世紀初頭の世界とは対極にある世界を彼は夢想し、作品の上で幾度と無くその世界の実現を試みる。
羅須地人協会はその理想を実現するための、地上での彼の住みかだった。
ここで多くの農民や若者の指導を連日繰り返しながら、彼の修行僧のような毎日は過ぎていった。
その毎日は、他のものから見れば苦しい日々のように映っただろうが、彼にとっては非常に充実した日々だったに違いない。
全体幸福の世界は、貧困や戦争があってはならない世界であり、賢治の生きた20世紀初頭の世界とは対極にある世界を彼は夢想し、作品の上で幾度と無くその世界の実現を試みる。
羅須地人協会はその理想を実現するための、地上での彼の住みかだった。
ここで多くの農民や若者の指導を連日繰り返しながら、彼の修行僧のような毎日は過ぎていった。
その毎日は、他のものから見れば苦しい日々のように映っただろうが、彼にとっては非常に充実した日々だったに違いない。
宮沢賢治は一生独身を通し、一説には童貞のままあの世へ旅立ったと言われている。
では、賢治は誰にも恋をしなかったかというと、恋はしており、それに関連した短歌も作っている。
賢治の心の恋人はやはり夭折した才媛の妹トシであろうが、トシ以外にも心を惹かれる女性は存在した。
盛岡中学を卒業した18歳のとき、肥厚性鼻炎の手術のため盛岡市内の岩手病院に入院した時に、そこの看護婦に片思いの恋をして、両親に結婚の許可を願い出たが許されなかったことがある。
羅須地人協会時代には、ある小学校の訓導でクリスチャンでもあった高瀬露という女性に思いを寄せられる。

露は、連日協会で頑張って農民たちや若者たちを指導している賢治のために、手作りのカレーを持って二階に上がってきた。
しかし賢治は自身ではカレーを食べず、そこに居合わせた農民たちにカレーをすすめた。
賢治への愛をカレーに託して持参した露だが、食べてもらえなくてがっかりし、階下のオルガンを激しく引き、激しい思いを伝えたが、賢治には逆効果で、その後露が来るたびに居留守を使ったりしたという。
しかし賢治は自身ではカレーを食べず、そこに居合わせた農民たちにカレーをすすめた。
賢治への愛をカレーに託して持参した露だが、食べてもらえなくてがっかりし、階下のオルガンを激しく引き、激しい思いを伝えたが、賢治には逆効果で、その後露が来るたびに居留守を使ったりしたという。
今時の女性に近い露を、賢治は持て余したのだろうか、それとも逆に露のような女性にはまったく魅力を感じなかったのだろうか。
友人の伊藤七雄の妹ちえは宮沢家と伊藤家の双方から結婚の対象と考えられた女性で、地方の素封家である宮沢家は豪農の伊藤家とは似合いで、賢治自身もちえに惹かれていたようだったという。
のちにちえは賢治の印象を、「あんまりあの方は巨き過ぎ、りっぱでいらっしゃいました」と語っている。
巨きくてりっぱで、ちえから見ると結婚の対象になどならなかったのであろう。
これらのエピソードからもわかるように、万人へのいたわりや愛を常に自己に課し、修行僧のような人生を歩んだ賢治には、個人的なレベルの愛すらも自分に許そうとしなかったというのが本当のところだろう。
「みんなの全体幸福のためには、自分のちっぽけな幸せなんかはどうなったっていい」という考え方で貫かれた賢治の人生は、恋愛においても不器用であり、間違いなく「巨き過ぎ、りっぱで」、恋愛には向いていなかった。
花巻はやはり、賢治の青春の街であった。
賢治の青春の夢に彩られた、永遠のイーハトーブでもあった。
何処を歩いても、何処に行っても賢治の匂いがして、空気が賢治の世界のように涼しくなってくる。
友人の伊藤七雄の妹ちえは宮沢家と伊藤家の双方から結婚の対象と考えられた女性で、地方の素封家である宮沢家は豪農の伊藤家とは似合いで、賢治自身もちえに惹かれていたようだったという。
のちにちえは賢治の印象を、「あんまりあの方は巨き過ぎ、りっぱでいらっしゃいました」と語っている。
巨きくてりっぱで、ちえから見ると結婚の対象になどならなかったのであろう。
これらのエピソードからもわかるように、万人へのいたわりや愛を常に自己に課し、修行僧のような人生を歩んだ賢治には、個人的なレベルの愛すらも自分に許そうとしなかったというのが本当のところだろう。
「みんなの全体幸福のためには、自分のちっぽけな幸せなんかはどうなったっていい」という考え方で貫かれた賢治の人生は、恋愛においても不器用であり、間違いなく「巨き過ぎ、りっぱで」、恋愛には向いていなかった。
花巻はやはり、賢治の青春の街であった。
賢治の青春の夢に彩られた、永遠のイーハトーブでもあった。
何処を歩いても、何処に行っても賢治の匂いがして、空気が賢治の世界のように涼しくなってくる。
花巻を発つ最後の時間になって、僕はイギリス海岸へ向った。
何回か道に迷った末、ようやくイギリス海岸に辿り着いた。
ここには「二度目の北上川の旅」で来ているが、その時は冷たい雨が降っていた。
今は雨も降ってなく、あんなにここへ着たかったというのに、ここに立ちたかったというのに、いざ辿り着いてみるとそんなでもないということが往々にしてある。
何回か道に迷った末、ようやくイギリス海岸に辿り着いた。
ここには「二度目の北上川の旅」で来ているが、その時は冷たい雨が降っていた。
今は雨も降ってなく、あんなにここへ着たかったというのに、ここに立ちたかったというのに、いざ辿り着いてみるとそんなでもないということが往々にしてある。
イギリスあたりの白亜の海岸を髣髴とさせるというあたりに立ったが、北上川が悠長に流れているだけで、どこにも白亜の海岸らしいものはなかった。
渇水の激しい年の夏にはそんな風景が出現するというあたりを見ながらここに立って、時代と真剣に向き合って必死に生きていた賢治のことを愛おしく思った。
宮沢賢治の青春の旅は、次回から石川啄木の青春の旅に引き継がれる。
渇水の激しい年の夏にはそんな風景が出現するというあたりを見ながらここに立って、時代と真剣に向き合って必死に生きていた賢治のことを愛おしく思った。
宮沢賢治の青春の旅は、次回から石川啄木の青春の旅に引き継がれる。
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