砂鉄と銀と神話の道(2017年の旅) その39 荒神谷の終焉

原ガイドは話を続けて、男性のシンボルの良く見える女性のシンボルを象徴するこの神庭西谷で、縄文時代から引き続いて沢山の子宝に恵まれるよう「縁結び」も願ったのではないかと付け加えた。
イメージ 1


縄文時代までは万物に神が宿ると考えられ、特に大木や巨石や山などが、神様が降臨する特別の場所と考えられていた。
今から2300年前の弥生時代に入ると稲作技術や青銅器が大陸や半島から伝わると、農耕祭祀に使われた青銅器は単なる祭具ではなく、信仰の対象となった。
銅鐸で音を出し神様を呼ぶと、神様は銅鐸に憑依し、銅鐸自体が信仰の対象となるのである。
神の住まれる場所である神社が出来たのは、ようやく奈良時代になってからのことである。
イメージ 2


原ガイドは一旦話を終え、上から荒神谷遺跡を見下ろせる場所に僕らを引率した。
イメージ 3


銅剣が埋納されていた状態のままに置かれているが、もちろんこれはレプリカで、本物は古代出雲歴史博物館にある。
銅剣は周辺小集落用に割り当てられたもので、竪穴住居2棟で一つの小集落とされ、一つの竪穴住居には5~6名が生活していたと考えられているので、一つの小集落には10~12名が生活していたとされている。
イメージ 4


 従って今から2000年前の島根県東部の人口は、4000人から4500人程度だったと推定されている。

銅剣の発見の1年後に、この銅鐸と銅鉾が発見された。
イメージ 5


銅剣の発見は34年前、銅鐸と銅鉾は33年前の発見となる。
銅鐸は近畿、銅鉾は北九州から持ち込まれたものなので、古代出雲では北九州と近畿の文化が出雲文化と融合していたと考えられる。
どのような方々が銅鐸や銅矛を持って古代出雲にやってきたのかとの質問には答えてくれなかったが、祭祀を取り仕切ったシャーマンについては、朝鮮半島から渡ってきた渡来系弥生人だったろうと原ガイドは解説してくれた。
ここで原ガイドは定番とされる資料(米子市の稲吉角田遺跡の弥生中期の壺絵)をファイルの中から抜き出した。
イメージ 6


建物は古代の出雲大社の原型であるという説があり、船の人物は中国の奥地、雲南のテン族や苗族の当時の頭飾りと似ている。
原ガイドはこれらのことには触れず、古代人の神概念について説明したがここは省略する。
最後に、荒神谷が終息した原因についても原ガイドは説明してくれた。
弥生時代の中期まではここは天候に恵まれていたが、弥生時代中期末になると気候の寒冷化現象が起こった。
イメージ 7


具体的には夏になると高温多雨となり、たとえば川の近くで稲作に精をだしていた出雲の斐伊川流域などでは大洪水が起こって集落は壊滅し、五穀豊穣どころでは無くなった。
その時点で、荒神谷は祭りを終息せざるをえなかった。
出雲大社を中心とする古代出雲にあった拠点集落は全滅したが、松江を中心とする周辺集落は残ったという。
その後300年後に鉄を求めて大和朝廷が古代出雲に攻め上ってきたが、この時松江を中心とする地域は簡単に降伏し、古代出雲を中心とする地域は戦って敗れた。
原ガイドの明快な説明で、古事記に記された「古代出雲の謎」の霧が、少しは晴れてきたような気がした。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック