天塩川の旅 その8 松浦武四郎踏査の地にて
国道40号線を北の方角に道を行く。
参考資料は、士別市博物館で職員から無料で貰った「北大河・テッシ~松浦武四郎まっぷ~」である。
参考資料は、士別市博物館で職員から無料で貰った「北大河・テッシ~松浦武四郎まっぷ~」である。
風連町、名寄市と過ぎ、向かうは美深市の「美深森林公園びぶかアイランド」そこに松浦武四郎が踏査し、宿泊した地がある。
1857年6月13日と24日のことで、当時の宿泊地名はオクルマトマナイ、今の美深町恩根内である。
道の駅~びふかの後方の美深森林公園びふかアイランド内の『びふか温泉』と道を挟んだ正面に、武四郎歌碑及び踏査之地碑がある。
1857年(安政4年)の天塩川流域踏査行時の6月13と24日の往復とも、武四郎は恩根内の先住アイヌ人であるエカシテカニの家に宿泊した。
武四郎は手厚くもてなしてくれたお礼として、和歌2首を送っている。
“ゑみしらは筍にもる飯も古のさまをつたへて葉椀にぞもる”
“かきならす五つの緒ごと音さえて千々の思いをわれもひきけり
ここで葉椀なるものが歌いこまれているが、葉椀とは神前に供える物を盛る器のことで、柏(かしわ)の葉を並べ重ねて竹ひごでとじ、中くぼみの盤のようにしたものである。
アイヌの世界は、森羅万象に神が宿るアミニズムの世界であり、食料を与えてくれるカムイ(神)に祈りながらの生活である。
武四郎はアイヌの世界観を思い、感情を込めてこの二首を送ったのだろう。
ところで、アイヌ民族の食文化は漁労や狩猟で得られた鮭や鹿、山野の採集で得られたオオウバユリの鱗茎やドングリや山菜、畑で栽培された雑穀やジャガイモを主な素材とし、油脂をふんだんに使った味付けとなる。 調味料は塩のほか、タラ、イワシ、サメ、アザラシ、シカ、クマなどの脂肪を用い、近世以降は味噌も使用された。
主な料理としては、オハウ ohaw(煮込み汁)がある。
これは、獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なるスープに留まらず、鍋料理とも言えるほど具沢山の汁物で、「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。
北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも言われている料理。
現在の野営地風景;キャンプ場になっている。アイヌはここで、こんなものを食べていたのかな。
ラタシケプ rataskep(野草による煮物や和え物)は 直訳すれば「混ぜたもの」。
山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから獣脂、魚油、少量の塩で味を整えた料理。日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、ハレ食である。
サヨ sayo(粥)はピヤパ(稗)やシアマム(米)で炊いた薄い粥。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。
農耕民族のような「主食」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として茶のようにすすられるものである。そのため脂気が混じらないように、それ専用の小鍋で炊かれる。
盛り付けの際も、掬うカスプ(お玉杓子)は汁用とは別のサヨカスプ(粥杓子)を用い、汁の味が混ざらないよう気を配った。
こんな場所で料理します!!
チタタプ citatap(肉や魚のたたき)だが、チタタプというアイヌ語を訳すれば、「チ・タタ・プ」(ci-tata-p 我々が・たくさん叩いた・の)、その名の通り、魚のたたきである。
イオマンテ(iomante)の際は、熊の脳のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。
イオマンテの儀式
こんなふうにアイヌ料理を見ていくと、日本料理にもお隣の国の韓国料理にも似たものがあって、やはり東アジアに生息する人々には似通ったところがあるのかなと感じる。
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