秋田県散歩(2015年の旅) その49 後三年合戦金沢資料館見学後、石坂洋次郎記念文学館へ

昼食後、30分程かけて横手市街から大曲方向に戻って、後三年合戦金沢資料館に向かった。(道に迷って、10分程うろうろした。)




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この資料館は、後三年合戦への理解と地域文化の振興を図るために平成3年8月に開館した。

後三年合戦は平安時代の東北北部に勢力を張る清原氏の内紛に、源頼義の子である陸奥国守源義家が介入し、清衡と家衡の所領争いに発展していく。

家衡は沼柵で義家・清衡連合軍を退け、叔父武衡と金沢冊で源氏を迎え討つ。

激しい攻防の末に金沢柵は陥落し、源氏の勝利で後三年合戦は終結し、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。

清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、ここで藤原清衡となり奥州藤原氏が始まるのである。




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 後三年合戦の決戦場となった金沢柵の場所は金沢八幡宮の周辺のようである。

 金沢八幡宮は、源義家が奥州藤原氏初代の藤原清衡に命じ、京都の石清水八幡宮の八幡神を陥落させた金沢柵跡に勧請し社殿を創建したとされているので、金沢柵の場所は金沢八幡宮の周辺で間違いないようである。

柵の位置と範囲の特定に向けて現在調査中とのことで、この金澤八幡宮まで歩いてそこからの眺めを見てみたかったのだが、時間が限られているのでまたまた先を急いで、再び横手市内へ向かった。





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 横手市街に入ると、まず赤字Aの石坂洋次郎文学記念館に向かった。

 次に赤字Bの横手城展望台に上り、山と川のある横手市内の街を上から遠望した。

その後、今夜の宿である橙星印のホテルクォードインyokoteに向かった。

最初に石坂洋次郎記念文学館に行ったが、ここには石坂洋次郎が教師としてまた作家として横手で過ごした時代の資料が数多く展示されている。

青森県弘前市に生まれ、弘前中学を出ると慶応大学に進学、慶応大学卒業後弘前高等女学校で1年ちょっと教師を務め、それから横手高等女学校(現横手城南高校)に転任した。




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石坂洋次郎記念文学館に入っていく。

作家石坂洋次郎は、大正15年から13年間にわたりた横手で教員生活を送り、この町は彼の作品の舞台として登場し、洋次郎に大きな影響を与え、その文学を開花させた。



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洋次郎の小説の多くは映画化され、記念文学館にはそれらのポスターが壁面いっぱいに展示されていた。

記念館の女性の事務員に、横手を舞台にした映画作品を教えてもらってメモしたので、そのメモを紹介する。

まず横手の町そのものが題名となった「山と川のある町」、横手高女(現横手城南高校)を舞台にした「若い人」、旧横手中学(現横手高校)を舞台にした「何処へ」である。

横手高女では2年半、旧横手中学では10年間教師として在籍して、若い人や続若い人などを執筆した。




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展示コーナーに「若い人」から引用した一章が自筆で記されていたので、音を出さないで数回暗唱した。

旧中学(現高校)位の年齢の者にはぴったりの、心に響く言葉だと感じた。

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