台湾紀行 その30 台湾原住(先住)民族アミ族のこと その2
台湾原住民の祖型がわかったところで、話を進めて行く。
現在、政府から認定された原住民族は、タイヤル(アタヤル)、アミ、ヤミ(タウまたはタオ)、プユマ、パイワン、ルカイ、ブヌン、ツォウ、サイシャット(サイシヤット)、サオ、タロコ、カバランの十二族で、住み分けは上図のとおり。
台湾原住民族の歴史だが、1603年(明:万暦31年)に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。
漢民族人口が増加してきた18世紀から19世紀頃に、台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民族を「平埔番」と呼び、特に漢化が進んだ原住民族を「熟番」と呼んた。
同時に、漢化が進んでいない原住民族を「生番」または「高山番」と呼ぶようになった。
1895年(明治28年)から台湾の領有を始めた日本は、当初清国の分類と名称を引き継いだが、やがて日本の学者によって1935年(昭和10年)に、「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」と呼称を改めた。
台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代から始まる。
台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に興味を惹かれた多くの民族学者、人類学者、民俗学者達が台湾に渡った。
鳥居龍蔵博士
代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年〜1953年)、伊能嘉矩(1867年〜1925年)、鹿野忠雄(1906年〜1945年?)、森丑之助(1877年〜1926年)、移川子之蔵(1884年〜1947年)、宮本延人(1901年〜1987年)、馬淵東一(1909年〜1988年)、千千岩助太郎(1897年〜1991年)、小川尚義(1869年〜1947年)、浅井恵倫(1894年〜1969年)らである。
彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。
第二次世界大戦後、日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は、現住民族のうち日本人によって「高砂族」に分類された諸民族を漢語名で「高山族」または「山地同胞」「山地人」と呼称して同化政策を進めた。
しかし1980年代以降の民主化の流れの中で原住民族が「原住民権利運動」を推進、中華民国政府に対してこれまでの同化政策の変更を迫った結果、中華民国憲法増修条文を始め、政府の公式文書にも「原住民(族)」、「台湾原住民族」という呼称を承認させた。
さらに、漢民族(「平地人」)とは別の者として「原住民」籍(身分)を設定した。
そして我がアミ族である。
アミ(Ami, 中国語:阿美族、別名:パンツァハ、パンツァ)族は、台湾原住民のなかで一番多い16万7734人、原住民族の約37%を占める民族。
居住地域は台湾の東部一帯、花蓮県・台東県・屏東県に亘る広い範囲。
主に平地に集落を構え、中央山脈と海岸山脈(東岸山脈)の間にある細長い渓谷地域(花東縦谷)、その両端の花蓮市や台東市周辺の平野部、海岸山脈の東側の太平洋沿いの平地、台湾南端の恒春半島に住んでいる。
アミ族はコメなどの農業やブタなどの畜産で生活し、海岸部では漁業を営んでいる。
伝統的な集落は他の原住民の集落に比較して大きく、500人から1000人規模が典型的である。
また台北市や高雄市など、台湾各地の大都市にも拡散しており、「大都市の原住民」の多くを占めている。
アミ族からは多くの歌手、芸能人、スポーツ選手、その他学者、教育者、政治家などが輩出されている。
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