長州路(2019年の旅) プロローグ
司馬遼太郎の「街道をゆく」は、司馬遼太郎自身が「もし自分の仕事の中で後世にまで読み続けられるものがあるとすれば、それは街道をゆくになるのだろう」と語っていたという程のもので、唯の旅行記ではない。
「街道・みち」に視点を傾けることで日本そして世界の歴史を展望、最終的には「日本とは何か、日本人とは何者か」という司馬遼太郎の永遠のテーマを自らの足で探検していった、旅の中で考え、旅の中で発見し、旅の中で彼自身も成長を続けてきた未完の大作である。
「司馬遼太郎の 街道をゆく」43巻の中身の旅をセレクトして、1年にほぼ3回実施してそれを10年間行うという、「司馬遼太郎とゆく10年の旅」の計画を、このように作成した。
この旅の中で、「日本とは何か、日本人とは何者か」、司馬遼太郎がライフワークとした永遠のテーマを、この10年を掛けて、自分の足と五感を駆使して探ってみたいと思って旅に出た。
「司馬遼太郎の街道をゆく」を真似ての10年がかりの旅、「街道をゆく 長州路(2019年の旅)」はその「8年目の春の旅」である。
僕の旅は、旅をして翌年まで1年がかりでブログ化し、そのブログが完了する頃に、次の街道の準備に入り、旅に出るという流れとなる。
令和に入って最初の旅は、「街道をゆく 長州路」を教科書として、薩摩藩と並んで明治維新の原動力となった長州藩(山口県)への旅ある。
長州では子供たちの遊びまでが「天誅ごっこ」であり、革命の地の伝統が昭和の初年ごろまで、県下のどの市町村でも行われていたという。
しかしその一方で、長州は自然がまろやかで、気候は温暖で、行儀や言葉づかいの品の良さは日本中のどの県よりも良く、美しい物腰が残っているところでもある。

その風景も絶景地に恵まれていて、関門海峡、赤間神宮、福徳稲荷神社、角島大橋、元の隅稲荷神社、青海島、秋吉台、錦帯橋、瑠璃光寺五重塔など、息を止めてしばしたたずんでしまうような場所が県内の随所に存在する。
司馬さんは長州路に出かける前に、下記に提示したなぞを自らに課して旅に出た。
1 長州からはなぜ思想的仁者が出るか
2 なぜ権力の座に就くと、山県有朋のように権力維持にのみ能力のすべ
てを使うという暗い怜悧さだけが目立つのか
3 なぜ都会的であり、さらにはなぜいまなお、封建的優美というか物腰
の美しさのようなものを残しているのか
この謎が旅の中で解けるか、司馬さんは全く自信がなかったが、とにかく旅に出た。
僕は司馬さんの謎の他に、「薩摩と並んで何故長州が明治維新の原動力となりえたのか」という謎を加えて旅に出てみたい。

更には、「絶景の地を心から楽しんでみたい」という気持ちも加えて、「長州路」の旅を始めることとする。
以下が、今回の旅の計画である。


最初に記したが、今回の旅は司馬遼太郎の「街道をゆく」から、「長州路」を旅のテキストとして使った。
旅の前半はほぼ計画通りに旅は進行したが、後半の二日間は強風と大雨に見舞われ、旅の日程を大きく変更することとなった。
この頃の日本列島である。
5月から日本の天候は予断を許さず、地震などの自然災害もいつ襲ってくるかわからない。
それでは、「長州路」の始まりである。
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