砂鉄と銀と神話の道(2017年の旅) その35 和鋼博物館にて
このあと、金屋子神社から安来市の和鋼博物館に向かった。

距離にして35km、時間にして50分ほどかかった。

最初は紀元2600年事業として設立が計画され、1946年に日立製作所安来工場付属の「和鋼記念館」として開館し、その後日立金属が運営を引き継いだ。

「和鋼記念館は、思ったより小さな建物である。ゆったりとした勾配の屋根に、雪に強い山陰特有の石見瓦がふかれている。印象的なのは、庭前にカツラの木が植えられていることだった。・・・・・」

和鋼博物館前にカツラの木があったかどうかまで確かめなかったが、巨大な隕石のようなものと司馬さんが表現していた鉧は、一番目立って庭前に置かれていた。
和鋼記念館で司馬さんは「ここ数年の屈託であった砂鉄」の「ものがたり」を饒舌に想像力豊かに語っていた。
司馬さんは語っていく。
「とくにこの日本の島々に住むアジア人が、他のアジア人に比べてすべてに好奇心が強く、組織を膨張させることについての願望が反省を拒否するくらいに強いのは何故か・・・・・、日本人の二つの特徴は「アジア的停滞」からは脱することができたが、二十世紀になると自他ともに傷つけて血みどろな歴史をつくってしまった。」

司馬さんは沖縄人の穏やかな性格にも触れている。
「沖縄では鉄器はつねに寡少で、農具は生産性の低い木器が主力であるという時代が続いた。木器の稼働能力が人間の欲望の限界をなしたということが、沖縄人のおだやかな性格をつくる原因をなした。」
司馬さんは、道具と人間の欲望にも言及していく。

「木器や石器が道具の場合、自分の家族が食べていけることを考えるのが精一杯で、他人の地面まで奪ったり、荒蕪の地を拓こうなどという気は起らない。要するに、木器にはそういう願望を叶える力はない。鉄器の豊富さが、『欲望と好奇心』という現象的にもたけだけしい心を育てるのではないか。」
更に、日本人と日本人以外のアジア人の違いにも言及していく。

「鉄がつくられるために最も重要な条件は木炭の補給力で、それは樹木の復元力である。乾燥している日本以外のアジアは樹木が少なく、鉄をつくるのに適さなかった。一方日本は湿潤な気候で樹木が豊富で森の復元能力が高く、古代以降鉄器を多産できた。そのことが、『欲望と好奇心』の強い日本人をつくった。一方乾燥度の高いアジア(朝鮮半島を含めて)は、輝かしい古代治金時代の終了とともに社会を閉じ、内部で古代の秩序文明(儒教体制)をみがいていくことに専念した。アジアは、それぞれの型に岐れた。」
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