津軽街道をゆく(2013年の旅) その58 弘前城をゆく
今日の午前中の日程だが、まず弘前城を見学、それから石場家住宅と旧藤田家を見学する予定である。
まず、弘前城の見学である。
弘前城へは外濠を越え、追手門から入った。
追手門とは敵の主力がそこへ押し寄せる正面の門という意味である。
司馬遼太郎がここに来たのは雪の季節だったが、僕の旅は秋の旅であり、司馬遼太郎が北のまほろばで書いていた風景とは異なっている。
追手門を出ると、弘前城跡案内図が掲示してあった。
現在地から赤矢印のように進んで行き、本丸地点にある天守閣を目指すが、途中にある通過点は黄四角の杉の大橋と南内門と下乗橋である。
最初に、中濠に架かっている杉の大橋を越えた。
僕は城攻めの敵方ではないが、三の丸が破られると敵方はこの橋を渡って二の丸へ向かう。
次に南内門をくぐった。
敵方はこの門を攻略して二の丸に攻め入る。
最後に、内濠に架かっている下乗橋を渡って本丸の敷地内に入ったが、この橋の上から見る本丸の姿にしばらく見とれてしまった。
本丸は、二の丸さえ陥ちた場合の残存する兵士の最後の陣地である。
本丸に到着し、資料館となっている本丸城内に入る。
この階段を上ると、天守閣最上階である。
弘前城は江戸時代には津軽氏が居城していて、江戸時代に建造された天守や櫓などが現存しており、城跡は国の史跡に指定されている。
司馬遼太郎は「街道をゆく 北のまほろば」で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。
天守閣は築城時は五層あったが落雷消失し、その後角櫓(すみやぐら)を改築し、現在ある三層の天守閣とした。
司馬遼太郎は「そのことがかえって全体との調和がよく、ふしぎなやさしさを帯びた名城となっている。」と書いている。
天守閣最上階にあがり、司馬遼太郎が「津軽平野の支配の象徴を三層の天守閣ではなく、神である岩木山である。」と言い切ったその山を、最上階の窓から眺めてみた。
岩木山こそ津軽平野の景観の主役であり、それを乗り越えるような存在は現れるべきではないと司馬が書ききった意味がわかるような気がした。
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