長州路(2019年の旅) その3 革命が起こった場所で、高杉晋作と出会う
功山寺は下関市長府にある曹洞宗の寺で、長府毛利家の菩提寺である。
溢れる程の新緑の中、功山寺の参道を上がっていく。
この山門は二重櫓造りで、1773年に長府藩主10代毛利匡芳の命を受けて建立されたもので、入母屋造りの美しい反りのある本瓦葺の屋根となっていて、軒までの高さは11mとのこと。
山門をくぐって、境内の奥へと進んでいく。
山門の前には、国宝の仏殿とその左に法堂が並んで立っていた。
広い境内の左手に境内案内図があったので、これをしっかり頭の中に入れておく。
まず、国宝となっている仏殿を見た。
仏殿は1320年の建立で、桁行3間、梁間3間、一重もこし入母屋造、檜皮葺の鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式の典型的な建物である。
わが国最古の禅宗様式の特徴が随所に見られ、鎌倉の円覚寺舎利殿同様に寺院建築史上大変貴重な禅宗様建造物となっている
美しい曲線美を見せる檜皮葺入母屋造の屋根は、30年に一度葺き替えされている。
そして、こちらが法堂である。
法堂と庫裡と書院が繋がっていて、後ろの庭に心地池が配置されているのだが、ここはまったく見なかった。
ここまでざっと見てきたが、功山寺は長府毛利家の氏寺ということで、寺も社格も一流のしっかりした見栄えのする寺である。
法堂の近くの鐘楼そのすぐ横に、この功山寺で一番見たかった、馬に乗った高杉晋作の像が建てられていた。
藩内の幕府恭順派台頭の中で身の危険を覚えた高杉晋作は、一時筑前へ逃れたがほどなく帰藩し、元治元年12月15日にクーデターを企図し決死の行動に出るが、これが功山寺決起である。
高杉はごく少数の勢力を率いて伊崎の藩庁出張所を制圧し、三田尻に停泊中の藩艦を奪取、やがて高杉のもとに奇兵隊などの諸隊も参集し、俗論派主導の藩政府への抵抗勢力となり、藩政から幕府恭順勢力を払拭した。
この決起と戦闘には、のちに総理大臣となる伊藤俊輔(博文)や山県狂介(有朋)ら旧松下村塾のメンバーも加わっていた。
ここ功山寺は明治維新へと続く革命が起こった場所で、この高杉晋作はその革命を成し遂げた主役達の一人なのである。
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