津軽街道をゆく(2013年の旅) その60 藤田記念庭園を見学

石場家から旧藤田家の藤田記念庭園へ向かった。

この庭園は日本商工会議所会頭も務めた実業家である藤田謙一が、1919年(大正8年)に郷里である弘前市に別邸を構える際に、東京から庭師を招いてつくらせたもの。



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園内は、高さ13mの崖地をはさんで高台部と低地部に分かれており、高台部は岩木山を借景した洋風庭園で、低地部は池泉回遊式の日本庭園となっている。総面積は約21,800m²に及び、東北地方でも有数の大規模な庭園である。



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まず高台部の洋風庭園に入り、最初に洋館に入った。



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この洋館は、藤田謙一の資料室となっていて、喫茶室も併設しているので、昼食はここで済ますことにして、まず資料室を覗いた。



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藤田謙一は青森県弘前市に、津軽藩士だった父明石永吉、母ともの次男として生まれ、5歳のときに、親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗った。

東奥義塾を中退後、1891年に上京し、東京・神田駿河台の明治法律学校(現在の明治大学)に入学卒業し、大蔵省(現在の財務省)に入省する。

大蔵省を1901年に辞めてから、「天狗煙草」で知られ岩谷商会の支配人となったり、東洋製塩の取締役となったり、改称された台湾塩業の専務取締役に就任したり、映画会社日活の社長にもなったり、多くの会社の代表や取締役を歴任した。

その後、日本商工会議所会頭や貴族院議員となった。



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彼の資料室に後藤新平と一緒に写った資料写真が展示されていた。



後藤新平は本来医者の人であるが、台湾が日本領で時代に総督児玉源太郎に抜擢され、台湾のインフラストラクチャーとして多大の功績を残した。

その後、満鉄の初代総裁に任命され、その後東京市長を務めたりもした多能の人である。

この写真は大正13年(1924年)撮影となっているので、関東大震災の1年後の写真で、後藤新平が東京市長(1919~23年まで)を辞め、山本内閣の内相として入閣、猛烈な勢いで罹災民救済と復興計画に没頭、復興院総裁を兼任した時の写真である。



藤田謙一はこの時、東京商業会議所の第3代会頭にもなっていないが、二人がここでどんな会話をして、将来の日本の夢を語ったか、聞いてみたい気がした。



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洋館を出て洋風庭園を歩くと、岩木山を借景した雄大な津軽の景色が眼前に広がった。



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ここから見た岩木山は、日本の未来への道を考える人が見る風景に相応しく、堂々としていて気品があり、やはり津軽の神というべき姿だった。

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