四国のみち プロローグ
司馬遼太郎の「街道をゆく」は、司馬遼太郎自身が「もし自分の仕事の中で後世にまで読み続けられるものがあるとすれば、それは街道をゆくになるのだろう」と語っていたという程のもので、唯の旅行記ではない。
「街道・みち」に視点を傾けることで日本そして世界の歴史を展望、最終的には「日本とは何か、日本人とは何者か」という司馬遼太郎の永遠のテーマを自らの足で探検していった、旅の中で考え、旅の中で発見し、旅の中で彼自身も成長を続けてきた未完の大作である。
「司馬遼太郎の 街道をゆく」43巻の中身の旅をセレクトして、1年にほぼ3回実施してそれを10年間行うという、「司馬遼太郎とゆく10年の旅」の計画を、このように作成した。
この旅の中で、「日本とは何か、日本人とは何者か」、司馬遼太郎がライフワークとした永遠のテーマを、この10年を掛けて、自分の足と五感を駆使して探ってみたいと思って旅に出た。
「司馬遼太郎の街道をゆく」を真似ての10年がかりの旅、「四国のみち(2018年の旅)」はその「7年目の春の旅」である。
ここで、古事記に記載されている四国について簡略に掲載する。
原文はこのようになっている。
如此言竟而御合、生子、淡道之穗之狹別嶋。次生伊豫之二名嶋。此嶋
者、身一而有面四。毎面有名。故、伊豫國謂愛比賣、讚岐國謂飯依比
古、粟國謂大宜都比賣、土左國謂建依別。
意味はこうである。
最初に生んだ子が(のちの淡路島となる)淡道之穂之狭別島(あわじの
ほのさわけのしま)。
次に生んだのが、(のちの四国となる)伊予之二名島(いよのふたなの
しま)。
伊予之二名島は身体が一つなのに顔が四つあり、その顔ごとに名前があ
る。
すなわち、伊予の国は愛比売(えひめ)、讃岐の国は飯依比古(いいよ
りひこ)、粟の国は大宜都比売(おおげつひめ)、土佐の国は建依別
(たけよりわけ)と言う。
古代においては、「伊予之二名島」、「伊予二名洲」、または単に「伊予島」、「伊予洲」(いよのしま、いよしま)、「二名島」、「二名洲」(ふたなのしま、ふたなしま)などと呼ばれていた。
何故、「伊予之二名島」「伊予二名洲」と呼ばれていたのかは、機会があったら調べたいと考えているが、話を先に進めていく。
「伊予之二名島」は身体が一つなのに顔が四つあり、その顔ごとに名前がある。
すなわち、伊予の国は愛比売(えひめ)、讃岐の国は飯依比古(いいよりひこ)、粟の国は大宜都比売(おおげつひめ)、土佐の国は建依別(たけよりわけ)と言う。
- 讃岐国の飯依比古とは、飯(いい)を産する男性の意味である。
- 粟国の大宜都比売とは、五穀を産する女性の意味である。
- 土佐国の建依別(たけよりわけ)とは、雄々しき男子の意味である。
この組み合わせによれば、「伊予国と土佐国」のカップルと、「讃岐国と粟国」のカップルになる。
この古事記に記された名を、愛媛県は今でも使っていて、愛媛県を直訳すれば「うるわしい乙女の県」となる。
「四国のみち」の中でも特に愛媛県は、楽しくなりそうな旅の予感がする。
「四国のみち」で使う交通機関は、電車とレンタカーとバスである。

地図の黄線が電車での旅、青線がレンタカーでの旅、赤線がバスでの旅という計画であるが、実際の旅は天候の関係で計画通りにはいかないだろう。
司馬さんが「街道をゆく」で旅した「四国のみち」は、「南伊予・西土佐のみち」、「梼原街道」、「阿波紀行」の三街道であるが、司馬さんの旅した街道(みち)については極力レンタカーを使用して、司馬さんの歩いた道を追体験することにする。

四国の魅力は、鳴門の渦潮、四万十川の清流、祖谷の渓谷美などに代表される絶景や、道後温泉に代表される名湯群、更には阿波踊りに代表される祭り、現存12天守のうちの4天守を持つ名城などの他に、豊富な歴史や史跡や旧跡などがあって、数えても切りがない。

それでは今回の12泊13日となる「四国のみち」の計画の全貌を紹介する。



いつものようにあくまでもこれは計画であり、実際はそうも上手くいかず、それだからなおのこと「四国のみち」は面白くなるのである。
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