長州路(2019年の旅) その5 下関市立歴史博物館

功山寺を下って、次に下関市立歴史博物館に行った。





博物館ではまず常設展で、赤間関や馬関と言われていた下関の歴史をさらっと見て回った。





下関の名称の変遷を紹介した展示パネルが面白かったので簡略に記載する。




    1. 8世紀前半に海上交通の取り調べのため「長門関」設置(現下関市前田付近)



    1. 9世紀頃、「上関」(摂津関あるいは大輪田船瀬と推定)に対応し、「長門関」の異称「下関」が登場。



    1. 10世紀頃、現下関市赤間町付近を指すと推定される地名「赤間泊」が登場。



    1. 12世紀以降、通行料の徴収を目的とする関所が置かれ、(赤間町・唐戸付近と推定)「赤間関」と呼称される。



    1. 「赤間関」の異称として、「赤馬関」「馬関」などが登場。



    1. 明治22年、「赤間関市」誕生、明治35年に「下関市」と改称。




名称の変遷だけでも、下関の歴史の概略がわかってくる。



下関を治めていた大内氏は朝鮮王国と通行し、日明貿易にも参画した。



朝鮮で成立した「海東諸国紀」には赤間関・肥中浦の名があり、下関地域は通交上の要衝と認識されている。








毛利氏は大陸から多くの商船が訪れる赤間関を直轄関として代官を置き、海外交易を進める商人たちからもたらされる物産を入手、赤間関は日本と東アジアを結ぶ窓口として発展した。








関ヶ原の戦いに敗れ、毛利氏は江戸時代に今の山口県のみに押し込められた。



支藩が幾つかあるが、各支藩の版図はわずかなものである。



萩藩が約37万石、支藩はせいぜい5万~6万石で、下関を治める長府藩も5万石である。








この大砲は、萩の鋳物師が製作した青銅砲で、下関戦争時に比小島の弟子待台場に設置されていた。








特別展は「晋作と龍馬」というタイトルの企画展で、維新の中心人物である二人の馬関での交流の様子や、彼らの造った用品や書いた手紙、彼らの写真などが展示されていた。



「晋作と龍馬」の交流については、馬関にいってからにしたい。

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