天塩川の旅 その7 天塩川下りの始まり

 9月19日朝5時半頃起床、今日は今回の旅の本番の日、天塩川の河口まで一気に走破する予定である。

 レストラン日向で納豆や卵や海苔で軽い朝食を済ませ、天塩川の左岸の舗装道路を北に向かった。

 しばらく走り、トウフトナイ川という看板が立っている沢を通り抜けたところで、小休止した。

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 この名は、間違いなくアイヌ語の地名である。
 
 
 看板には説明も乗っており、意味は「沼口の沢」となる。

 
 アイヌ語でトーは沼ナイは沢フトは口、「トウフトナイ川」を直訳すれば、沼口の沢の川となる。


 ナイが沢(川)を表す意味なので、川をつけるとおかしくなるが、地名ではなく河川の名なので、こういうことになる。


 アイヌ語やアイヌ地名に出会うと、北海道の地が以前は蝦夷(えぞ)と呼ばれたアイヌ人たちの土地であったことが体感できる。


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 北海道では、あちこちで大昔の人たちが使った石器が発見されており、数万年前から人が住んでいたことがわかっている。 

 やがて本州と同じように縄文文化期を迎え、狩猟・漁労・採集の生活が行われ、その後、本州などでは稲作を中心とする弥生文化が成立したが、北海道では稲作が行われず、縄文文化を引き継いだ続縄文文化と呼ばれる時代を迎える。


 それから、北海道の広い範囲で、本州文化の影響を比較的強く受けた擦文文化と呼ばれる文化が広がり、オホーツク海沿岸では、北方の文化の影響を強く受けたといわれるオホーツク文化と呼ばれる文化が成立した

(このオホーツク文化への旅が来年度以降の本格的な旅のテーマとなってくるが、今年度はそれを垣間見る旅となる。)


 伝統的なアイヌ文化と見なされる生活様式が成立していくのは、おおよそ13~14世紀頃だと考えられている。日本史では鎌倉時代の頃となる。
 

 その頃のアイヌ民族の生活圏である。


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アイヌの歴史は単独で成立している訳ではなく、周りの民族との関わりのなかで作られてきた。

 東北以南に住む稲作中心の日本民族(和人、シャモ)の他に、樺太から先にはニヴフ(ギリヤーク)ウイルタ(オロッコ)、そしてウリチナナイ(黒澤明監督の映画「デウス・ウザーラ」で有名)や、モンゴル漢族満州族といった大陸の民族が住んでおり、千島列島の先にはカムチャッカ半島があり、イテリメンコリャークチュクチが暮らしていた。


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 天塩川左岸から右岸へ移動する際に天塩川に架かる橋の上に車を停めて下流方向を改めて見たが、天塩の流れは雄大で、まるで太古の世界から流れ出て、太古の世界へ向かうようで、この風景は日本人の先住民族であるアイヌ人達が見たものとほとんど変わらないんだろうなと感じた。

 きっと天塩川は、このままの風景を保ちながらで河口まで流れていくんだろう。

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