岡倉天心 茶の本 第六章 芸術鑑賞 その1 花なくてどうして生きて行かれよう(k)

 春の東雲のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君は彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。
 人間について見れば、花を観賞することはどうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。
 無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿でなくて、どこに処女の心の解ける姿を想像することができよう。
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 原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。
 彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。
 彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。
 喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。
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 花とともに飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。
 花を飾って結婚の式をあげ、花をもって命名の式を行なう。
 花がなくては死んでも行けぬ。
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 百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって冥想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。 
 さらに花言葉で話そうとまで企てた。
 花なくてどうして生きて行かれよう。
 花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。
 病める人の枕べに非常な慰安をもたらし、疲れた人々の闇やみの世界に喜悦の光をもたらすものではないか。
 その澄みきった淡い色は、ちょうど美しい子供をしみじみながめていると失われた希望が思い起こされるように、失われようとしている宇宙に対する信念を回復してくれる。
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 われらが土に葬られる時、われらの墓辺を、悲しみに沈んで低徊するものは花である。
 悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。
 羊の皮をむいて見れば、心の奥の狼はすぐにその歯をあらわすであろう。
 世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。
 たぶん人間はいつまでも禽獣を脱しないから罪人となるのであろう。

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