謎の海洋民族オホーツク人とオホーツク文化を訪ねる旅その5 間宮林蔵渡樺の地にて
宗谷岬先端部の2〜3km手前に「間宮林蔵渡樺出航の地」がある。宗谷岬へ向かう前に立ち寄った。
間宮林蔵は、江戸時代末期の19世紀初頭、日本の北辺に20年以上滞在し、蝦夷・千島列島・樺太において数々の業績を残した探険家。
とりわけ樺太・東韃靼の探査では間宮海峡を発見し、その名を世界地図上に残した。
この案内板には、こう書かれている。
『ロシアの南下政策に驚いた幕府は文化5年4月13日(1808)間宮林蔵と松田伝十郎を北蝦夷(きたえぞ・カラフト)の調査に向かわせた。 流氷は去ったものの、なお酷しい寒気と荒波の宗谷海峡をのりこえて人情、風俗の異なる北蝦夷に渡り、東海岸を調べた。 この年、林蔵は再び北蝦夷に渡り越冬、翌年文化6年春、西海岸を北上し北蝦夷は大陸と海峡をへだてた島であることを確認した。夏には大陸交易に赴くギリヤーク人に同行しアムール下流の満州仮府デレンを訪れ、この地方の情勢を調査し、「東韃(とうだつきこう)」として報告された。 後にシーボルトは「間宮の瀬戸」と名付けて世界に紹介した。』
ここに書かれているギリヤーク人が、実はオホーツク人の子孫ではないかと多くの歴史家の間で考えられている人々なのである。
そのあたりの考察は平成24年度の「グレートジャーニーオホーツク街道の旅」でおいおいしっかりと腰を据えて行なって行きたい。
いずれにしても、この「間宮林蔵渡樺出航の地」がオホーツク人を訪ねる旅の本当の始まりとなる。
松田伝十郎と間宮林蔵の第1回の探検路は赤で示されている行程。
アイヌの人が案内する小さな舟に乗り、間宮林蔵は樺太を東海岸側から、松田伝十郎は西海岸側から調査を始めた。
その頃、樺太は島なのかシベリアと陸つづきの半島であるかすらも、現住民族以外の人々には判っていなかった。
この1回目の探検で林蔵は途中までしか進めず、内陸を横断して伝十郎が調査している西海岸へ進んだ。
伝十郎はこの時ラッカまで進み、潮の流れのようすや、海をはさんでシベリアが見えたことなどから樺太が島であることを確信したという。
しかし確信したといっても、それだけの状況証拠では樺太の島であることの実証にはならず、歴史に名を残す間宮海峡の発見は翌1809年の第2回目の間宮林蔵単独の調査結果となった。
エピソード
松田伝十郎は、樺太が島であると確信し、江戸に帰ると、さっそく「樺太島図」という地図にした。
松田伝十郎の出身地「新潟県柏崎市の海岸にある顕彰碑
樺太島発見時の言葉、「樺太は離島なり,大日本国国境と見極めたり」が刻まれている。
ところが、再度樺太にわたった林蔵は、シベリアにまでわたり、「樺太」が島であることを発見し、幕府に報告した。
松田伝十郎のファンは、最初に樺太が島であると確認したのは伝十郎、しかも上司であり隊長でもある伝十郎にことわりもなく、林蔵が幕府に報告し、結果として松田海峡でなく間宮海峡となったのはけしからんと、今でも恨みに思っているとか。
ここで問題です。
あなたが江戸幕府なら、松田伝十郎と間宮林蔵のどっちを海峡の名にふさわしい男と思いますか?コメント欄にご自由に記載ください。
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