「日本最長10河川の旅」で出会った「日本を代表する人物」 最上川への旅 その9 斎藤茂吉 NO1 斎藤茂吉と妻輝子は、最悪の相性の夫婦
2002年から2011年までの10年の期間をかけて、「日本の最長10河川の源流から河口までの旅」を走破した。
この源流から河口までの旅の中で、「日本の国が誇る傑出した人物」と十数名出会ったが、魅力あふれる人物ばかりなので、このブログを借りて紹介する。
2002年の信濃川の旅では島崎藤村と、同じ2002年の神流川の旅では内山節と、2003年の姫川の旅では岡倉天心と、2004年の阿賀野川の旅では野口英世と、2005年の利根川の旅では萩原朔太郎と、2006年の北上川の旅では宮沢賢治や石川啄木と、2007年の最上川の旅では松尾芭蕉や斎藤茂吉や直江兼続と、同じ2007年の阿武隈川の旅では伊達政宗や松尾芭蕉と、2008年の木曽川の旅では島崎藤村や福澤桃介と、2009年の天竜川の旅では柳田国男や後藤総一郎と、2010年の石狩川の旅では小林多喜二や三浦綾子と、2011年の手塩川の旅では松浦武四郎と出会った。
今回は、2007年9月に旅した最上川で出会った斎藤茂吉である。
これから、おくのほそ道と別れ、上山市にある「斎藤茂吉記念館」に向かう。
赤矢印の記念館までは市街地をバイパスして、どうにか辿りついた。
ここで、記念館に入る前に、斎藤茂吉について以前書いたことを記す。
斎藤茂吉はアララギ派の重鎮で、正岡子規を元祖とするこの短歌グループの生き様は真摯ではあるが半端なところがなく、斎藤茂吉もそのような歌人の一人である。
斎藤茂吉は知らなくても、北杜夫や斎藤茂太それに彼らの母である斎藤輝子のことを知っている人は多いだろう。(写真は茂吉・輝子の次男の北杜夫)
いかにもアララギ派らしい人生を過ごした茂吉よりは、悪妻の典型として、やりたいことはすべてやってしまうような、わがまま娘がそのまま大人になったような人格の持ち主である斎藤輝子の人生の方を、どうしても興味を持って見てしまう。
ます、茂吉の妻である斎藤輝子から入っていく。
斎藤輝子は探検家の一人として取り上げても、何の遜色もない女性である。
茂吉亡き後、60歳を越えた高齢の身になってから猛然と海外旅行に飛び回り始め、それも先進国だけならまだしも、南極、エベレスト山麓、アフリカ、南米アマゾン、ガラパゴスとか、世界の秘境に好んで出かけて行った行動力は、並の探検家程度である。
大病院のお嬢様として生まれ育ちながらも、彼女の伝記のタイトルは「猛女とよばれた淑女」となる。
その抜群の行動力は、茂吉のような地味な田舎者の男とはまったく相容れない真っ赤に燃え盛る太陽にも似た「猛女」そのもので、性行動においてもその奔放さは変わらず、世に有名な「ダンスホール事件」の関係者とまでなった。
この事件は、ダンスホールを舞台に、有閑マダムが美男のダンス教師を相手に乱交を繰り広げ、警察が上流夫人との乱交を行っていたダンス教師らを逮捕したという事件。
姦通罪があった時代で、この事件は、朝日や読売などの全国しでも大々的に報道され、警察の取り調べを受けた上流夫人の中に、『青山脳病院長でアララギ派の歌人斎藤茂吉博士夫人「輝子」』の名もあった。
上の写真は青山脳病院、ここで茂吉と輝子の結婚式も行われた。
輝子にとっては美男ダンス教師も世界の秘境の一つでしかなく、簡単に高峰を制覇したといったところであろうか。
茂吉はこの乱交事件の後、心労で心身症になってしまった。
輝子と別居し弟に輝子を預けて謹慎させたが、謹慎先の宿屋でも、輝子は普通の女性と違ってまったく悪いことをしたとは思ってなく、シャーシャーとして派手な格好で外出し、欲しいものは食うの贅沢三昧で、いつの間にか見たこともないようなお菓子や果物まで取り寄せるという女性だった。
実はこの茂吉と輝子は、最悪の相性の夫婦で、そうと知らずに結婚したこの不幸な夫婦は、その後10年以上も別居することになった。
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