新神戸ものがたり その6 北野異人街散策の始まり

 布引ハーブ園は昼食だけにして、再び新神戸の街に戻った。

 これから北野異人街を散策する。

 神戸の北野が歴史上に現れたのは、1180年の福原遷都に際して平清盛が都の鬼門鎮護のため、京都の北野天満宮をこの地に勧請したことによる。

 時代が下って明治の開港まで、北野から三宮の地域は神戸村や北野村という名の農村地帯であり、砂浜と田畑と山野がひろがっていた。

 北野村は居留地にもっとも近い山麓の恵まれた位置にあり、開港当時の家数60戸、人数230人であった。

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 北野村(町)に異人館街が誕生した理由は、開港後の来日外国人の増加による居留地の用地不足にあった。

 諸外国との条約上、居留地を広げることは治外法権区域の拡大を意味するため、明治政府は、東は生田川、西は宇治川の範囲を限って日本人との雑居を認め、居留地から山手に延びる南北道の整備を行った。

 このため居留地や港が南に一望できる環境のよい山手の高台に外国人住宅である異人館が集まり、のちには居留地の仕事場に山手から通勤するライフスタイルも定着した。

 異人館は明治時代から昭和初期にかけて二百余棟建てられ、形はほぼ「コロニアルスタイル」と呼ばれる様式に集中していて、異人館ではベランダ、下見板張りペンキ塗りの外壁、ベイウィンドウ(張り出し窓)、よろい戸、赤レンガ化粧積み煙突などが特徴となっている。

 北野異人街の成立を確認して、実際にこれから異人街の中に入っていく。

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 具体的には、黄□で囲った範囲が異人館街で、できるだけ多くの異人館を廻ってみたい。

 北野異人街を旅したのは今までに2回あり、1回目は布引ハーブ園を旅した2007年1月6日の午後で、この時は午後いっぱい異人街を廻れた。

 2回目の旅は2018年の「播磨と淡路のみち」で兵庫県を旅した時に、旅の最後の日の11月12日の午前中、布引の滝を見た後に北野異人街を旅した。

 この二つの旅で撮影した写真を使って、北野異人街を旅していく。

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 まず、北野異人街の一番高台に立地する赤□の「うろこの家」「うろこ美術館」「山手八番館」「北野外国人倶楽部」「旧中国領事館」の5館を見る。

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 この5館の他に、「イングランド館」「仏蘭西館」「ベンの家」「旧パナマ領事館」を加えた9館特選入場券を、特別割引の3150円で購入した。

 北野異人館に入る前に、北野異人街の成立以後の歴史を見ていく。

 1939年の第二次世界大戦の勃発、同16年の太平洋戦争への突入は、永く神戸に住んでいた在留外国人の国外退去や母国への帰国を招き、北野界隈をはじめ神戸の山手の外国人と共生してきた環境は大きく損なわれることとなった。

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 この戦争による空襲の被害は、多くの異人館や歴史的なストックを失わしめることとなった。

 第二次世界大戦の敗戦は神戸の市街地に壊滅的な被害をもたらし、旧居留地をはじめ山手にも空襲の被害が及んだ。

 戦後1960年頃までは二百棟近い異人館が点在していたが、60~70年代の高度成長期以降、次第にビルやマンションへの建て替えが進み、異人館街の破壊が進んだ。

 1975年頃より女性向け雑誌が相次いで神戸異人館の特集を組み、さらに77年放送のNHK連続テレビ小説「風見鶏の館」で取り上げられたことにより人気が沸騰し、異人館の存在は広く知られ、閑静な有宅地であった北野町界隈は一躍観光地として有名になったのである。

 1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災により異人館も大きな被害を受けたが、残された30棟あまりの建物は全国から駆けつけた自治体・大学・研究機関・ボランティアの支援も受けながら速やかに修復作業が進められ、観光地としての異人館は復興を遂げて現在に至っている。

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