謎の海洋民族オホーツク人とオホーツク文化を訪ねる旅 その1
これから、謎の海洋民族であるオホーツク人とオホーツク文化を訪ねる旅のスタートをする。
今回の旅はその序章ということで、本格的な旅は来年度以降ということになるが。
平成24年度から「グレートジャーニーⅠ(街道を行く;国内編)をスタートさせる予定で、そのスタート地点を日本最北端の地である稚内市の宗谷岬にするという計画はもう既に立てている。
今回の旅はその序章ということで、本格的な旅は来年度以降ということになるが。
平成24年度から「グレートジャーニーⅠ(街道を行く;国内編)をスタートさせる予定で、そのスタート地点を日本最北端の地である稚内市の宗谷岬にするという計画はもう既に立てている。
こんな地図を見ると、すぐにでも樺太へ渡りたくなる。(海峡の最短距離は約42km)
宗谷海峡は日本名で、国際的な名称は、1787年にここを通過したフランスの探検家ラ・ペルーズの名からラ・ペルーズ海峡(英語:La Pérouse Strait)である。
ここにはオホーツク文化の担い手となったオホーツク人の残した遺跡が沢山残っている。
この「グレートジャーニーⅠ(街道を行く;国内編)」は司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズを参考に構築されたものであるが、単に司馬の旅を模写しての旅では何の面白みもない。
司馬の旅はあくまでも教科書であり、参考書である。
司馬以外の旅人も掘り起こし、考古学をはじめとする学問や科学の力を借りながら、司馬が考えていた日本人というもの、日本の国というものを僕の個人的な切り方で踏み分けながら、深い部分まで入り込み切り開いて行ってみたい。
どういうふうな旅になるか皆目見当もつかない。
が、宮沢賢治ではないが、日本の自然や生き物たちや精霊たちや、この国に生まれこの国の土の中に帰っていった10億程度の日本人達の魂(この数を多いと見るか少ないと見るか、僕は多めに計算してこのくらいだと・・・、誰か正解を教えてください。)が助けてくれるだろう。
上図でも明らかなように、紀元前の日本の人口は60万人程である。
僕の生活する新潟市は広域合併で80万程の人口を保持するようになったが、紀元前後の日本は国全体に新潟市市民が住んでいたイメージである。
それより前の8千年前(縄文早期)で2万人、6千年前(縄文前期)で10万人、5千年前で12万人、4千年前(縄文中期)で26万人、3千年前(縄文晩期)で8万人(寒冷期で人口が激減)、2千年前(弥生時代→稲作始まり人口が激増)で59万人、西暦700年(大宝律令)で451万人、江戸時代前は1000万程、戦国の世が去り稲作文化の北進と農業生産の飛躍的な増加で、江戸時代は3000万程の日本人が日本の国で生活していた。
こんな図を眺めていると、普段全く気づかなかった日本の国の風景が垣間見えてくる。
ところで、教科書若しくは参考書となる司馬遼太郎の名著「オホーツク街道」であるがそれは「街道を行く」シリーズの終わりに近い第38巻目に当たり、そこには宝石のようにオホーツク遺跡の数々が紹介されている。
先ず初めに、司馬遼太郎の名著「オホーツク街道」冬の旅で紹介のある抜海を目指す。
ここで問題です。
日本の国に今まで生まれ、死んでいった人の人数は総数でどのくらいだと思いますか?
僕はおおよそ10億人と推測しましたが、みなさんの推定人数をお書きください。
真面目に計算すると大変な時間がかかります。調べられてわかった方はコメント欄に書いてください。
ここで問題です。
日本の国に今まで生まれ、死んでいった人の人数は総数でどのくらいだと思いますか?
僕はおおよそ10億人と推測しましたが、みなさんの推定人数をお書きください。
真面目に計算すると大変な時間がかかります。調べられてわかった方はコメント欄に書いてください。
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