岡倉天心 茶の本 第五章 芸術鑑賞 その4 真の鑑賞力
現今の美術に対する表面的の熱狂は真の感じに根拠をおいていない
これに連関して小堀遠州に関する話を思い出す。
遠州はかつてその門人たちから、彼が収集する物の好みに現われている立派な趣味を、お世辞を言ってほめられた。
これに連関して小堀遠州に関する話を思い出す。
遠州はかつてその門人たちから、彼が収集する物の好みに現われている立派な趣味を、お世辞を言ってほめられた。
「どのお品も、実に立派なもので、人皆嘆賞おくあたわざるところであります。これによって先生は、利休にもまさる趣味をお持ちになっていることがわかります。というのは、利休の集めた物は、ただ千人に一人しか真にわかるものがいなかったのでありますから。」と。
遠州は歎じて、「これはただいかにも自分が凡俗であることを証するのみである。偉い利休は、自分だけにおもしろいと思われる物をのみ愛好する勇気があったのだ。しかるに私は、知らず知らず一般の人の趣味にこびている。実際、利休は千人に一人の宗匠であった。」と答えた。
実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。
われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。
高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。
一般民衆にとっては、彼らみずからの工業主義の尊い産物である絵入りの定期刊行物をながめるほうが、彼らが感心したふりをしている初期のイタリア作品や、足利時代の傑作よりも美術鑑賞の糧かてとしてもっと消化しやすいであろう。
彼らにとっては、作品の良否よりも美術家の名が重要である。
数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する。
今日いずれの方面を見ても、擬古典的嫌悪けんおを感ずるのは、すなわちこの真の鑑賞力の欠けているためである。
美術と考古学の混同
なお一つ一般に誤っていることは、美術と考古学の混同である。
古物から生ずる崇敬の念は、人間の性質の中で最もよい特性であって、いっそうこれを涵養したいものである。
古いにしえの大家は、後世啓発の道を開いたことに対して、当然尊敬をうくべきである。
彼らは幾世紀の批評を経て、無傷のままわれわれの時代に至り、今もなお光栄を荷にのうているというだけで、われわれは彼らに敬意を表している。
が、もしわれわれが、彼らの偉業を単に年代の古きゆえをもって尊んだとしたならば、それは実に愚かなことである。
しかもわれわれは、自己の歴史的同情心が、審美的眼識を無視するままに許している。
美術家が無事に墳墓におさめられると、われわれは称賛の花を手向たむけるのである。
われわれは人生の美しいものを破壊することによって美術を破壊している
進化論の盛んであった十九世紀には、人類のことを考えて個人を忘れる習慣が作られた。
収集家は一時期あるいは一派を説明する資料を得んことを切望して、ただ一個の傑作がよく、一定の時期あるいは一派のいかなる多数の凡俗な作にもまさって、われわれを教えるものであるということを忘れている。
われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。
いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。
同時代美術の要求は、人生の重要な計画において、いかなるものにもこれを無視することはできない。
今日の美術は真にわれわれに属するものである、それはわれわれみずからの反映である。
これを罵倒ばとうする時は、ただ自己を罵倒するのである。
今の世に美術無し、というが、これが責めを負うべき者はたれぞ。
古人に対しては、熱狂的に嘆賞するにもかかわらず、自己の可能性にはほとんど注意しないことは恥ずべきことである。
世に認められようとして苦しむ美術家たち、冷たき軽侮の影に逡巡している疲れた人々よ! などというが、この自己本位の世の中に、われわれは彼らに対してどれほどの鼓舞激励を与えているか。
過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。
未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。
われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を破壊している。
ねがわくは、ある大妖術者が出現して、社会の幹から、天才の手に触れて始めて鳴り渡る弦をそなえた大琴を作らんことを祈る。
この記事へのコメント