近江街道をゆく その30 埋木舎(うもれぎのや)にて
この日の最後に、井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの不遇の時期の15年を過ごした埋木舎(うもれぎのや)に行った。
埋木舎は井伊直弼の命名で、ここは尾末町御屋敷(北の御屋敷)と呼ばれていた。
彦根藩井伊家では、藩主の子であっても世子以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりとされていた。
尾末町御屋敷(「北の御屋敷」)はそうした控え屋敷の一つであった。
控え屋敷であるため下屋敷のような立派な建物でもなく、素材も一段下で大名の家族の住居としてはきわめて質素であり、中級藩士の屋敷とほぼ同等である。
彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷に入った。
300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった。3年余りして直弼20歳のとき、養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組(直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる)だけで、直弼には期待むなしく養子の話がなかった。
直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、次のような歌を詠んでいる。
世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき業」があると精進した。
前日出会った男性の言っていたとおり、ここの住まいの古格ぶりが凄かった。
世に埋もれて趣味に生きるとこのような感じになるのかなと思った。
中国の詩人「陶淵明」の人生を逆に生きた井伊直弼の「花の生涯」が、ここに来て少し理解できた。
この屋敷は舟橋聖一の小説「花の生涯」で、井伊直弼が青春時代を過ごした館として登場、その後この小説はHHK大河ドラマ第1号として、1963年4月7日から12月29日までNHKで放映された。
この埋木舎は、大河ドラマの主舞台となって再び表舞台に出て、9ヶ月間テレビに登場した。
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